第二話 隣国令嬢の微笑み
第二話 隣国令嬢の微笑み
午後の茶会は、滞りなく終わった。
ラントン伯爵夫人は五十代の穏やかな女性で、花の話と孫の話を交互に繰り返す。ソフィアは相槌を打ちながら、笑顔を崩さなかった。二時間、完璧な侯爵夫人として振る舞い続けた。
客が帰ったあと、ソフィアはようやく一人になった。
応接室の椅子に深く腰を下ろし、静かに目を閉じる。仮面を外せるのは、こういう瞬間だけだった。マリアも気を利かせて、しばらくは部屋に入ってこない。
窓の外では、午後の光が庭の薔薇を橙色に染めていた。
ソフィアの脳裏に、半年前の夜会の光景が浮かんだ。
あれは王都で最も格式高いとされる、春の夜会だった。国王陛下も出席される大きな催しで、各国の貴族が一堂に会する。ソフィアはセイルの隣に立ち、いつものように微笑んでいた。
レイナが現れたのは、夜会が始まって一時間ほど経った頃だった。
扉が開いた瞬間、広間の空気が変わった。亜麻色の髪を高く結い上げ、深緑のドレスをまとった彼女は、まるで舞台に登場した女優のように、その場の視線を一身に集めた。隣国アルヴァの外交団の一員として紹介されたレイナは、流暢な王国語で挨拶をし、柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、ひどく自然だった。
計算があるのかないのか、ソフィアにはわからなかった。ただ、誰もがその笑顔に引き寄せられていくのは、はっきりと見えた。
セイルもその一人だった。
外交上の挨拶として、セイルはレイナに近づいた。二言三言、言葉を交わす。それだけのことだった。それだけのことのはずだった。なのにセイルは、珍しく声を上げて笑った。ソフィアが五年間、ほとんど聞いたことのない笑い声だった。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
嫉妬だと気づくまでに、少し時間がかかった。この五年で、その感情の存在をほとんど忘れていたから。
——気にすることはない。外交上の付き合いというものがある。
そう自分に言い聞かせた。その夜は、それで済んだ。
しかし翌週も、翌々週も、セイルはレイナと顔を合わせる機会が増えた。外交の会合とやらで、昼間から出かけることも多くなった。帰宅した夫の表情は、以前よりも柔らかかった。
ある夜会で、ソフィアはレイナと正面から向き合った。
「ヴァルト侯爵夫人、はじめまして。レイナ・フォン・アルヴァと申します。先日の会合でセイル様とご一緒させていただきまして、奥様のことも伺っておりました」
その一言で、ソフィアはすべてを理解した。
表向きは丁寧で礼儀正しい挨拶だった。しかしその言葉の裏には、明確なメッセージが込められていた。私はあなたの夫と親しい。それだけの時間をすでに共にしている——と。
微笑みは完璧だった。敵意も、侮りも、表面上はどこにもない。むしろ友好的とさえ言える態度だった。
だからこそ、タチが悪かった。
「まあ、そうでしたか。セイルがお世話になっております」
ソフィアも微笑んだ。同じように、完璧に。
二人の女が、笑顔のまま向き合っていた。広間の喧騒が遠くなる気がした。レイナの緑の瞳は、ソフィアをまっすぐに見ていた。品定めをするでも、挑発するでもない。ただ、見ていた。
その目の奥に、確信のようなものを感じた気がした。
——この女は、知っている。自分がどういう立場にいるか。
ソフィアの背筋を、冷たいものが走った。しかし表情は動かさなかった。五年間で身につけた仮面は、今夜も完璧に機能した。
その夜、屋敷に戻ったソフィアは、一人で鏡の前に座った。
微笑みを作ろうとして、やめた。誰も見ていない部屋で、仮面を被る必要はない。鏡に映っているのは、疲れた一人の女だった。白銀の髪も、青い瞳も、貴族らしい整った顔立ちも、今夜は何の意味も持たなかった。
セイルはあの夜会に最後まで残り、深夜になって帰宅した。ソフィアの部屋には来なかった。
泣こうとしたが、涙は出なかった。
その代わり、胸の中で何かが静かに固まっていくのを感じた。怒りでも悲しみでもない、もっと冷たくて、静かなもの。
——もう、いい。
その夜から、ソフィアの中で何かが変わった。
茶会の余韻の中で、ソフィアはゆっくりと目を開けた。
窓の外の薔薇は、夕暮れの光の中でゆっくりと影を濃くしていた。まもなくセイルが屋敷に戻る時間だ。引き出しの中の離縁状が、静かにソフィアを待っていた。
立ち上がり、ドレスの裾を整える。
今夜で、終わりにする。
ソフィアは応接室を出て、夫を待つための場所へと、静かに歩き出した。




