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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第一話 五年目の朝

第一話 五年目の朝


 五年目の朝も、ソフィアは一人で目を覚ました。


 隣のベッドに夫の温もりはない。それがいつからかを、もう数えるのをやめていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、広すぎる寝室を白く照らしている。シーツの冷たさが、今日も変わらない現実をそっと告げていた。


 ソフィアは静かに起き上がり、鏡の前に座った。侍女のマリアが無言で髪を整え始める。白銀の髪に櫛を通されながら、ソフィアはいつものように微笑みの練習をした。


 口角を少し上げる。目元を柔らかく。眉間に力を入れない。


 完璧な侯爵夫人の顔が、鏡の中に現れた。


 この顔を作るのに、最初の一年はひどく時間がかかった。嫁いだばかりの頃は、夫が帰らない夜に泣いて、翌朝目が腫れてマリアに心配をかけた。今はもう、泣くことすらない。感情が枯れたのか、それとも慣れてしまったのか、自分でもよくわからなかった。


「奥様、本日は午後から茶会のご予定が入っております。ラントン伯爵夫人がお越しになる予定です」


「ええ、わかっているわ。三時からね」


「左様でございます。お召し物はいかがなさいますか」


「淡いブルーのドレスにしましょう。あまり華美にならない方がいい。ラントン夫人は派手なものを好まないから」


 マリアが小さく頷き、手際よく支度を進める。五年間、この侍女だけがソフィアの仮面の裏を知っていた。何も言わず、何も聞かず、ただそばにいてくれる。それだけで、どれほど救われたかわからない。


 ヴァルト侯爵家に嫁いで五年。


 伯爵令嬢として申し分ない家柄で送り出してくれた両親の期待に応えるように、ソフィアは完璧な妻を演じ続けた。社交界では常に優雅に微笑み、夫の隣で恥ずかしくない立ち居振る舞いを心がけた。領地の管理も、使用人への采配も、来客へのもてなしも、すべて一人でこなしてきた。


 夫・セイルは優秀な侯爵だった。


 王都でも指折りの名門を束ね、国王陛下の信頼も厚く、若くして国政にも深く関わっている。背が高く、濃紺の瞳を持つ端整な顔立ちは、社交界でも常に注目を集めていた。有能で、誠実で、人望もある。妻として誇れる夫だった。


 ただ——妻を見る目だけが、嫁いだ頃からずっと、どこか遠かった。


 政略結婚だということは最初からわかっていた。愛情など期待していなかった。それでもソフィアは信じていた。共に時を重ねれば、いつかこの人は自分を見てくれると。五年という歳月は、その淡い期待を少しずつ、しかし確実に削り取っていった。そこへ追い打ちをかけるように現れたのが、あの女だった。


 隣国の公爵令嬢・レイナ・フォン・アルヴァ。隣国アルヴァ公爵家の令嬢で、王都に外交の随行として訪れたのが半年前のことだ。亜麻色の髪と緑の瞳を持つ彼女は、社交界にすぐに溶け込んだ。明るく社交的で、誰とでも打ち解ける笑顔が魅力的だと、夜会のたびに話題になった。


 セイルの目が変わったのは、それからすぐのことだった。


 帰りが遅くなった。以前から多かった公務が、さらに増えた。しかし以前と違うのは、帰宅したセイルの表情が、どこか満ち足りているように見えることだった。疲れているはずなのに、目の奥に小さな光がある。ソフィアと目が合うと、その光はすぐに消えた。


 問い詰めるつもりはなかった。証拠があるわけでもない。ただ、五年間夫を見続けてきた妻の勘が、静かに告げていた。


 ——あなたの心は、もうここにはないのだと。


 朝食の席にセイルの姿はなかった。


 昨夜も帰りは深夜を過ぎていた。馬車の音で目が覚めたのに、寝室の扉は開かなかった。客間で休んだのだろう。そういう夜が、最近は増えていた。


 ソフィアは一人で朝食の席に着いた。テーブルの上には丁寧に用意された料理が並んでいる。スープ、焼きたてのパン、季節の果物。どれも美しく整えられているのに、食欲がわかない。


 冷えた紅茶を一口飲んで、ソフィアはそっとカップを置いた。


 怒りはない。悲しみも、もうほとんど残っていない。嫉妬で眠れなかった夜も、涙が止まらなかった朝も、遠い昔のことのように感じた。人の心というのは不思議なもので、痛みに慣れきると、いつの間にか感じなくなる。


 あるのはただ、静かな決意だけだった。


 机の引き出しの中に、一枚の書状がある。三日前に王都の書士に密かに依頼して用意させた離縁状だ。何度も引き出しを開けては閉めた。迷っていたわけではない。ただ、本当にこれでいいのかと、最後の確認をしていた。


 今日、渡そう。


 セイルが夕刻に一度屋敷へ戻ると、昨日マリアから聞いていた。感情的な場面にはしたくない。冷静に、粛々と、ただの手続きとして終わらせる。五年間、感情を飲み込んで生きてきたのだ。最後くらい、自分の思い通りに幕を引きたかった。


 ——そろそろ、潮時ね。


 誰にも聞こえない声で、ソフィアは呟いた。


 薔薇庭園に面した窓の外では、五月の風が花びらを揺らしていた。赤い薔薇、白い薔薇、淡いピンクの薔薇。嫁いだ最初の春に、ソフィアが自ら選んで植えさせた花たちだ。いつかセイルと並んでこの庭を歩けると思っていた。その夢は、五年経っても叶わなかった。


 でも、もういい。


 ソフィアは静かに立ち上がり、窓の外の薔薇をもう一度だけ見つめた。それから踵を返し、今日も完璧な侯爵夫人として、一日を始めた。


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