第四十八話 薔薇庭園の約束【ソフィア視点】
第四十八話 薔薇庭園の約束【ソフィア視点】
王都に着いたのは、昼過ぎだった。
馬車が門をくぐる瞬間、ソフィアは少し息を止めた。王都の空気が、体に戻ってきた。石造りの建物。石畳の広い通り。人の多さ。音の種類。全部、覚えていた。
マリアが隣に座っていた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
本当のことだった。怖いとは思っていたが、怖さより先に、静かな覚悟があった。
屋敷の門が見えてきた。
ヴァルト侯爵家の屋敷は、王都の北側にある。石造りの、重厚な門構えだった。五年間、ここを出入りした。あの朝、馬車でここを出ていった。
馬車が止まった。
門が開いた。
出迎えたのは、カトリーナだった。深く頭を下げた。その後ろに、数人の使用人が並んでいた。
「お帰りなさいませ」
カトリーナがそう言った。
お帰り、という言葉を、ソフィアはすぐには受け取れなかった。ここはもう、自分の帰る場所ではないかもしれない。でも、カトリーナはそう言った。
「……ただいま」
口から出た言葉は、そうだった。
セイルは、庭にいた。
カトリーナに案内されるまでもなく、ソフィアには分かった。屋敷に入って、北側へ向かった。廊下を歩いた。五年間歩いた廊下だった。怖いかと思っていたが、思ったより静かだった。
北側の扉を開けた。
庭が、目に飛び込んできた。
赤と白と、淡い桃色の薔薇が、一面に咲いていた。
ソフィアは、扉の前で止まった。
五年前に植えた庭が、今年も咲いていた。誰も手入れをしなければ枯れていたものが、ちゃんと咲いていた。
——咲いた。
それだけのことが、目の奥に沁みた。泣くまいと思った。でも、少しだけ目が熱くなった。
セイルが、庭の中ほどに立っていた。
ソフィアの足音を聞いたのか、振り返った。旅の埃があるソフィアを見て、少し目を細めた。
「来た」
「ええ」
短い言葉だった。でも、その二文字に、色々なものが詰まっていた。
ソフィアは庭に入った。石畳の小道を歩いて、セイルのそばに近づいた。
薔薇の香りがした。嫁いで最初の春から、毎年この庭で嗅いでいた香りだった。
「きれいに咲きましたね」
「庭師がよくやってくれた」
「あなたが頼んだから」
セイルは何も言わなかった。でも、その横顔が少し動いた。
二人で並んで、庭を見た。
しばらく、黙っていた。
王都の昼の音が、遠くから聞こえてきた。馬車の音、人の声。でも庭の中は、静かだった。薔薇の香りと、春の風だけがあった。
「一つ、言いたいことがあります」
ソフィアが言った。
「聞かせてくれ」
ソフィアは、庭を見たまま、言った。
「五年間、あなたが扉を閉めていたことで、私は自分を見失いました。完璧でいることでしか、立っていられなかった。それは、あなたのせいです」
セイルは黙っていた。
「責めるために言うのではありません。ただ、この庭で、この場所で、言わなければならないと思っていた。王都で言うべき言葉だったから」
「……聞いた」
「受け取ってもらえましたか」
「ちゃんと受け取った」
ソフィアは少し息を吐いた。
言えた。この場所で、ちゃんと言えた。
五年間が、少し軽くなった気がした。終わった、という感覚ではなかった。でも、区切りがついた。あの五年間に、ちゃんと区切りをつけた。
しばらくして、セイルが口を開いた。
「この庭を、また一緒に育ててほしい」
ソフィアは、薔薇を見ていた。
「育てる、というのは」
「庭のことだけではない」
低い、静かな声だった。
「俺たちの間にあるものを。時間をかけて、一緒に」
ソフィアは少しの間、黙っていた。
答えは決まっていた。ずっと決まっていた。名前を呼ばれたあの日から。
でも、今日ここで言うべき言葉を、ソフィアは丁寧に選んだ。
「一つだけ、約束してください」
「何でも」
「もう扉を閉めないこと。怖くても、踏み込んでくること。私が間違っていると思ったら、ちゃんと言うこと」
「……誓う」
「私も、同じことを約束します。飲み込まない。仮面をかぶらない。怖くても、本当のことを言う」
セイルが、ソフィアを見た。
「ソフィア」
「はい」
「もう一度、隣にいてくれますか」
ソフィアは、セイルを見た。
濃紺の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。怖れのない目だった。逃げない目だった。
「……ええ」
短く、でも確かに、答えた。
薔薇の庭が、春の風に揺れた。赤と白と桃色が、一緒に揺れた。
五年間、この庭を一人で見ていた。今日は、隣に誰かがいる。
——これが、始まりだ。
終わりではなく、始まり。
ソフィアは薔薇の庭を見ながら、そう思った。仮面なしで、本当の声で、隣に立っている。それだけで、今日は十分だった。
桃色の薔薇が、風を受けて、かすかに香った。




