第四十七話 セイルの誓い【セイル視点】
第四十七話 セイルの誓い【セイル視点】
薔薇が咲いた朝、セイルは一人で庭に立っていた。
夜明けから少し経った頃だった。空がまだ白く、鳥の声だけが聞こえる時刻だった。
赤い薔薇が、一番早く咲いた。次に桃色。白はまだ蕾だったが、今朝見たら一輪だけ開いていた。三種類全部が、今年も咲いた。
手紙はすでに出していた。昨日の夕方に。届くまで三日かかる。ソフィアがここに来るとしたら、一週間後か、十日後か。
来てくれるとは、まだ確信が持てなかった。考えると言っていた。逃げないと言っていた。でも、来るとは言っていない。
それでいいと思っていた。
来るかどうかは、ソフィアが決めることだ。
庭師が来る前に、セイルは一人で庭を歩いた。
薔薇の株のそばに膝をついて、土を触った。適度に湿っていた。庭師がよく手入れをしてくれていた。枯れた枝は落とされ、新しい芽が伸びていた。
ソフィアが最初の春に植えた株が、五年経って、今もここにある。
——しぶとい。
以前にも、同じことを思った。誰も水をやらなくても、春になれば芽吹く。ソフィアが植えたものは、ソフィアがいなくなっても生きていた。
だが今年は、枯らさなかった。
水を切らさなかった。庭師に頼んで、ちゃんと手を入れた。それだけのことだが、今のセイルにできることは、それだけだった。
あとは、ソフィアが来たとき、咲いている庭を見せること。それだけだ。
屋敷に戻って、書斎に入った。
机の上に、一枚の紙があった。昨夜、眠れないまま書いたものだった。
誓い、と呼べるものだった。
誰かに見せるつもりはなかった。ただ、書かなければならない気がして、書いた。
読み返した。
名前を、呼ぶ。毎日でなくていい。でも、呼ぶ。言葉が足りないと思ったら、言葉を探す。諦めない。扉の前で踵を返さない。怖くても、踏み込む。隣にいる人間を、ちゃんと見る。見ようとし続ける。
大したことは書いていなかった。
だが、五年前の自分には、これが全てできなかった。だから書いた。できなかったことを、これからやるために。
もう一行、付け加えた。
——ソフィアが望まないことは、しない。
これが一番大事だと思った。
自分がしたいことより、ソフィアが望むことを先に考える。五年間、それが逆だった。自分が踏み込みたくないから踏み込まなかった。自分が楽な方へ流れた。今度は違う。
ソフィアが望まないなら、しない。ソフィアが来たくないなら、来なくていい。ソフィアが答えを出したくないなら、急かさない。
ただ、ソフィアが望んでくれるなら——その望みに、全力で応える。
昼前に、カトリーナが来た。
「薔薇が咲きましたね、旦那様」
「ああ」
「奥様は、いらっしゃいますか」
「手紙を出した。来るかどうかは、分からない」
カトリーナは少しの間、黙った。それから言った。
「旦那様」
「何だ」
「以前、奥様に会いに行きました。余計なことだったかもしれませんが」
「知っている」
「お叱りを受けると思っておりました」
「叱らない」
セイルは少し間を置いた。
「余計なことではなかった、とソフィアが言っていた」
カトリーナが、目を細めた。
「……そうでしたか」
「ありがとう、と言っておけ。俺からも」
カトリーナは深く頭を下げた。その肩が、少し震えていた。
二十年仕えた使用人に、礼を言ったことが今まであっただろうか。セイルは、なかったかもしれないと思った。
それも、これからやることだった。
夕方、もう一度庭に出た。
午後の光が、薔薇を横から照らしていた。赤と桃色と白が、それぞれの色で咲いていた。風が通ると、かすかに香った。
——ソフィアが植えた庭だ。
そう思いながら見ると、同じ庭が違って見えた。五年間、目の端にあって、ちゃんと見たことのなかった庭。今は、一輪一輪が目に入った。
赤は、アーデル家の庭と同じ品種だと言っていた。白は、侯爵夫人らしい色だと思って選んだと。桃色は、意味がなかった。ただ綺麗だったから。
三種類の理由を、全部覚えていた。
——桃色が一番自分らしいと言っていた。
今、風に揺れている桃色の薔薇を見て、セイルは初めてその言葉の意味が体に届いた気がした。
意味のない花が、一番自分らしい。
完璧な仮面の下で、そういう人間が、ずっとここにいた。
ソフィアが来たとき、この庭の前に立って、一緒に見たい。
それだけを、今夜は思った。
それ以上は、望まなかった。望まないことが、今の誓いだったから。
薔薇の香りが、夕風に乗って流れていった。




