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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第四十六話 許せないもの【ソフィア視点】

第四十六話 許せないもの【ソフィア視点】


 手紙は、十日後に来た。


 薔薇が咲き始めた、という知らせだった。赤が一番早く、次に桃色、白はまだ蕾だが、もうすぐ開くだろうと書いてあった。それから一行、付け加えてあった。


 ——待っている。


 短い言葉だった。飾りがなかった。セイルらしかった。


 ソフィアは手紙を読んで、エミリアに見せた。


「行くの?」


「ええ」


「いつ?」


「三日後に馬車が出ると、マリアが調べてくれた」


 エミリアは少しの間、ソフィアを見た。それから、頷いた。


「そっか」


「寂しいですか」


「めちゃくちゃ寂しい。でも、引き止めない」


 エミリアらしかった。ソフィアは少し笑った。



 王都へ発つ前日の夜、ソフィアは一人で広場に出た。


 夜の広場は静かだった。水飲み場の石が、月明かりを受けていた。薔薇の株は暗がりの中にあったが、昼間に確かめていた。今日、蕾が一つ開いていた。小さく、白い花だった。


 老人に報告したら、「この株が一番乗りとは珍しい」と言っていた。白が一番早く咲いた年は、いい年になると、昔からこの町では言うのだと。


 ソフィアはその花の前に立って、しばらく動かなかった。


 明日、王都へ行く。


 怖くないかと問えば、怖い。あの屋敷に戻ることは、五年間の記憶に戻ることでもある。完璧な侯爵夫人を演じ続けた廊下を歩く。セイルが扉の前で踵を返した夜のことを思い出す。白薔薇がレイナへ贈られた朝のことを。


 それでも、行く。


 行けるのは、今の自分にはあの頃とは違うものがあるからだ。仮面なしで立てる自分がある。本当のことを言える言葉がある。



 夜風が吹いた。薔薇の株が揺れた。


 そのとき、ふと、一つのことが浮かんだ。


——許せないものが、まだある。


 許すことはできている、とエミリアに言った。それは本当だった。だが、許せることと、許せないことは、別にあった。


 セイルを許せる。五年間のことを、全てではないが、許せる。あの人が変わろうとしていることも、本物だと思う。


 だが、一つだけ、まだ許せないことがあった。


 五年間、ソフィア自身が、自分を後回しにし続けたことだ。


 感情を飲み込んだ。泣かないと誓った。完璧でいることで、傷つかないようにした。それは生きるための手段だったと、今は理解している。責める気持ちはない。


 でも、あの五年間の自分に対して、ただ一つ言いたいことがある。


——もっと早く、自分のために怒ればよかった。


 誰かを傷つける怒りではない。自分を守るための怒りを、もっと早く持てばよかった。飲み込むことをやめて、もっと早く出てくればよかった。


 それができなかったことを、今夜は静かに、自分に対して怒った。


 怒って、それから、手放した。


 あの五年間の自分を、責め続けることはしない。あの頃の自分は、あの頃の自分にできることをした。でも、もう同じことはしない。それだけでいい。



 広場の白い薔薇が、夜風に揺れていた。


 ソフィアはその花を見ながら、もう一つのことを思った。


 王都に行って、セイルに会って、答えを言う。その答えは決まっている。でも、答えを言う前に、一つだけセイルに言いたいことがある。


 五年間、あなたが扉を閉めていたことで、私は自分を見失った。それはあなたのせいだ。私のせいではない。そのことを、もう一度、あなたの目を見て言いたい。


 王都でなければ言えない言葉だと思った。


 あの廊下で、あの庭で、あの食卓で。五年間が積み重なった場所で、言わなければならない言葉だと。


 責めるためではない。終わらせるためだ。


 ちゃんと終わらせてから、新しいことを始める。



 ソフィアは広場を後にした。


 エミリアの家の窓に、灯りがあった。マリアがまだ起きているのかもしれない。


 扉を開けたら、温かい空気がした。台所から、何かを温めている匂いがした。


「遅かったね」


 エミリアがいた。温かい飲み物を二つ、食卓に用意して待っていた。


「ごめん、少し考えていた」


「いいよ。明日、早いから。一緒に飲もうと思って」


 ソフィアは椅子に座った。温かいカップを両手で包んだ。


「エミリア」


「何?」


「ここに来てよかった」


 エミリアは少し目を細めた。


「来てくれてよかった。私も」


 二人は、しばらく黙ってカップを持っていた。


 言葉は要らなかった。この町で過ごした時間が、今夜の沈黙の中に全部あった。


 明日、旅立つ。


 でも、ここで取り戻したものは、どこへ行っても持っていける。


 カップの温かさが、両手から体の中へ、静かに広がっていった。



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