第四十五話 ソフィアの答え【ソフィア視点】
第四十五話 ソフィアの答え【ソフィア視点】
セイルが帰った日の夜、ソフィアは眠れなかった。
眠れない夜は、この町に来てからほとんどなかった。王都を出た直後は、夜中に目が覚めることがあった。だが最近は、よく眠れていた。
今夜は違った。
寝台の上で、天井を見ていた。月明かりが窓から入って、部屋をうっすらと照らしていた。
——ソフィア。
名前を呼ばれた瞬間のことを、何度も思い返した。
五年間、一度も呼ばれなかった名前だった。社交の場では「侯爵夫人」、使用人の前では「奥様」、セイルはいつもそう呼んだ。ソフィア、という名前だけで呼ばれたことが、嫁いでから一度もなかった。
今日、呼ばれた。
たった二文字だった。でも、その二文字が、胸の中でまだ鳴っていた。
翌朝、エミリアが何も聞かなかった。
朝食を食べながら、いつも通りの話をした。薬草店の在庫のこと、町の東側に新しい店が開くらしいこと。ソフィアも、いつも通りに答えた。
だが昼前に、薬草店の仕事が一段落したとき、エミリアがふと言った。
「ソフィア、顔色がいいね。眠れなかったのに」
「分かる?」
「目の下が少し。でも、顔の色が明るい。不思議な顔してる」
ソフィアは少し笑った。
「……そうかもしれない」
「答え、出そう?」
エミリアは遠回しにしなかった。いつもそうだった。
ソフィアは手を止めた。
「出そう、というより……もう出ているのかもしれない」
「いつから」
「昨日、名前を呼ばれたとき」
エミリアが少し目を瞬かせた。それから、静かに頷いた。
「そっか」
「でも、すぐには言わない」
「なぜ」
「庭が咲いてから、と言ったから。それまでに、ちゃんと整理したい。自分の中で」
エミリアは少しの間、ソフィアを見ていた。
「整理って、何を?」
「許すことと、もう一度始めることは、別のことだと思うから」
「別?」
「許すことは、もうできている気がする。怒りは今もある。でも、それとは別に、許していることも本当だから。ただ……もう一度始めることは、許すこととは違う。それは、私が選ぶことだから」
エミリアはしばらく黙っていた。
「……難しいことを、ちゃんと分けて考えてるんだね」
「こちらに来てから、時間があったから」
「その答え、セイル様に言える?」
「言えると思う。庭が咲いたら」
その日の夕方、広場に出た。
老人はいなかった。薔薇の株だけが、夕暮れの光の中にあった。
昨日、セイルとここに並んで立った。二人で、同じ株を見た。
蕾は、昨日より少し膨らんでいた。もう少しで開く。早咲きの株は、他より先に咲くと老人が言っていた。
——王都の庭も、もうすぐ咲くだろう。
セイルから手紙が来る。薔薇が咲いたと知らせてくれる。そうしたら、ソフィアは王都へ行く。あの屋敷へ、もう一度。
怖くないかと問われれば、怖い。五年間仮面をかぶり続けた場所だ。でも、今のソフィアには、あの頃とは違うものがある。
自分の声がある。本当のことを言える言葉がある。仮面なしで立てる自分がある。
それを持って、もう一度あの場所に行く。
薔薇の蕾が、夕風に揺れた。
夜、マリアに話した。
庭が咲いたら王都へ行くつもりだということ。その先のことは、まだ言葉にしていないが、答えは出ていること。
マリアは黙って聞いていた。
「マリア、一つだけ聞いていい?」
「はい」
「あなたは、どう思う」
マリアはしばらく黙った。五年間、主人の問いに自分の意見を言うことをしなかった侍女が、今日は少し時間をかけて、ゆっくりと口を開いた。
「旦那様は、変わられました。それは本当だと思います」
「ええ」
「変わった方が、また元に戻ることもあるかもしれません。それは、誰にも分からない」
「分かっている」
「でも」マリアが、少し間を置いた。「ソフィア様も、変わられました。王都にいた頃のソフィア様は、もうここにはいない。今のソフィア様は、傷ついても、もう飲み込まないと思います」
ソフィアは、その言葉をゆっくりと受け取った。
「……そうね」
「だから、どちらに進まれても、ソフィア様は大丈夫だと思っています」
マリアらしい言葉だった。背中を押すのでも、引き止めるのでもない。ただ、どちらでも大丈夫だと言う。
「ありがとう、マリア」
マリアは首を振った。でも今夜は、その目が少し潤んでいた。ソフィアは気づいていたが、指摘しなかった。
夜が深くなって、ソフィアはようやく目を閉じた。
答えは出ている。庭が咲いたら、伝える。それまでは、ここで今まで通りに過ごす。薬草店に行って、エミリアと話して、老人と薔薇の話をして。
自分の日常を、自分の速度で、生きる。
それがこの町で取り戻したものだった。
窓の月明かりが、静かに床を照らしていた。
ソフィアはその光を少しだけ見てから、目を閉じた。
今夜は、眠れた。




