第四十四話 もう一度だけ【セイル視点】
第四十四話 もう一度だけ【セイル視点】
この町に来て、三日目になっていた。
一日のつもりが二日になり、二日が三日になった。仕事が待っている。王都に戻らなければならない。それは分かっていた。でも、今日が最後だと思うと、朝から何かが胸に引っかかっていた。
宿を出て、いつもの時刻に扉を叩いた。
今日はマリアではなく、ソフィアが出た。
少し驚いた。ソフィアが扉を開けるのは、初めてだった。
「おはようございます」
「……おはよう」
おはよう、と言った。敬称なしで。気づいたのは言った後だった。ソフィアも、少し目を瞬かせた。だが何も言わなかった。ただ、扉を開けて中に通した。
今日は、エミリアとルカも食卓にいた。
少し賑やかな朝食だった。ルカは相変わらず口数が少なかったが、セイルに対して警戒している様子はなかった。エミリアは初対面のときより、ずっと気安かった。
エミリアが、セイルに向かって言った。
「今日で帰るんですか」
「ああ」
「また来ますか」
「来る」
間を置かずに答えた。エミリアが少し笑った。
「即答だ」
「考える必要がないから」
ルカが、黙ったまま少し頷いた。それが何を意味するのか、セイルにはよく分からなかったが、悪いものではないと感じた。
朝食の後、ソフィアと二人になった。
エミリアとルカは気を利かせて出ていった。マリアも台所に引っ込んだ。食卓に、お茶が二つ。いつもの形だった。
今日が最後だと思うと、言いたいことが多すぎる気がした。だが、多すぎるものを全部言おうとすると、何も言えなくなる。それはもう分かっていた。
一つだけ、言おうと決めていた。
「ソフィア」
名前を呼んだ。
敬称なしで、初めて呼んだ。この町に来てから、何度か声に出す練習をしていた。一人の宿の部屋で、誰もいない夜に。でも、本人の前で呼ぶのは、今日が初めてだった。
ソフィアが、少し息を止めた。
セイルも、少し止まった。
「……なんですか」
ソフィアが、静かに続きを促した。声が、少し違った。いつもより、わずかに低かった。
「もう一度だけ、頼みがある」
「聞かせてください」
「屋敷の薔薇庭園が咲いたとき、見に来てほしい。あなたが作った庭が、今年も咲いた。それをあなたに見てほしい」
ソフィアは黙っていた。
「王都に来い、と言っているわけではない。屋敷に戻れと言っているわけでもない。ただ……一度だけ、庭を見に来てほしい」
言いながら、この頼みが身勝手かもしれないと分かっていた。王都はソフィアが出てきた場所だ。屋敷は、五年間仮面をかぶり続けた場所だ。そこへ来てほしいと言うことが、どれほどの重さをソフィアに課すか。
それでも、言わなければならなかった。
「俺にできることは、庭の手入れをすることだけだ。あなたが作ったものを、枯らさないことだけだ。でも、咲かせることはできた。それを、あなたに見てほしい」
ソフィアは、しばらく窓の外を見ていた。
春の光が、石畳を照らしていた。薬草店の前で、エミリアが客と話しているのが見えた。
「……庭が咲いたら、知らせてくれますか」
「ああ。すぐに手紙を出す」
「その手紙が来たら、考えます」
即答ではなかった。でも、拒否でもなかった。
「考えてくれるなら、十分だ」
ソフィアが、セイルを見た。
「一つだけ、聞かせてください」
「何でも」
「庭を見に行ったとして、その先のことを……あなたはどう考えていますか」
真っ直ぐな問いだった。
セイルは少しの間、黙った。答えは持っていた。だが、言葉にすることに、まだ少し時間が要った。
「一緒にいたい」
短かった。
「侯爵夫人として、ではなく。ソフィアとして、隣にいてほしい。俺の隣に」
ソフィアは何も言わなかった。
目が、少し潤んだ。泣くのかと思ったが、泣かなかった。ただ、その青い瞳が、いつもより深い色になった。
「……今すぐ答えは出せません」
「分かっている」
「でも、ちゃんと考えます。逃げないで」
「それで十分だ」
二人の間に、静かな時間が流れた。
お茶が冷めた。今日も誰も気にしなかった。
セイルは立ち上がる前に、もう一度だけソフィアを見た。
白銀の髪。青い瞳。でも今日のソフィアは、王都の屋敷で見ていたソフィアとは違った。仮面がない。力が抜けている。本来の声で、本来の顔で、ここにいる。
——この人を、隣に置きたい。
その気持ちは、今日が一番はっきりしていた。
「また来る」
「ええ」
「手紙も出す」
「読みます」
短い別れだった。でも、最初の別れとは全く違った。あの朝、馬車が出ていくのを見送るだけだった別れとは。
セイルは扉を出た。
振り返らなかった。振り返ったら、また戻りたくなると分かっていたから。
春の光の中を、宿へ向かって歩いた。
胸の中に、重さがあった。置いてきた重さと、持っていく重さが、両方あった。
それが今の、自分の全てだった。




