表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/57

第四十三話 変わった男【ソフィア視点】

第四十三話 変わった男【ソフィア視点】


 セイルが来てから二日目の朝だった。


 今回の訪問は、前回より少し長かった。一日で帰るつもりだったのか、二日になったのか、ソフィアには分からなかった。ただ、昨日の夕方に「明日も来ていいか」と聞かれて、ソフィアは頷いた。


 断る理由がなかった。それだけではなく、来てほしいと思っていた。そのことに、もう驚かなくなっていた。


 朝食の後、エミリアがこっそりソフィアに言った。


「昨日、セイル様と少し話した」


「え?」


「ソフィアがいない間に。薬草店に顔を出してきたから」


 ソフィアは少し驚いた。セイルが薬草店に。


「何の話を?」


「最初は薬草の話。ラベンダーとカモミールの違いを聞いてきた」


 ソフィアは思わず少し笑った。手紙に書いたことを、直接確かめに行ったらしかった。


「それから?」


 エミリアが少し間を置いた。


「ソフィアのことを、聞いてきた」


「私のことを?」


「ここでどんな顔をしているか、って。嬉しそうにしているときはどんなときか、って」


 ソフィアは黙った。


「私、正直に答えたよ。薬草を覚えたときと、老人と話しているときと、手紙を書いているときだって」


「……エミリア」


「だって本当のことだもん」


 エミリアが悪びれずに言った。ソフィアは少し顔が熱くなったが、怒る気にはなれなかった。


——手紙を書いているとき。


 エミリアはそれを、セイルへの手紙だと分かって言っている。セイルも、分かって聞いている。



 その日の昼前、セイルが来た。


 今日は食卓ではなく、エミリアの家の小さな庭に出た。エミリアが薬草を育てている場所で、日当たりがよく、風が穏やかだった。椅子を二つ出して、並んで座った。


 しばらく、他愛のない話をした。


 王都の話。陛下の様子。屋敷の使用人たちのこと。これまでの訪問ではほとんど出なかった話題だった。深刻な話ではなく、ただの日常の話だった。


 セイルは相変わらず口数が少なかった。だが、以前と違うのは、聞くことが上手くなっていた。ソフィアが何かを言うと、そこから次の問いが来た。興味を持って聞いている、ということが伝わってきた。


「エミリアの薬草店に行ったそうですね」


 ソフィアが言うと、セイルが少し間を置いた。


「……聞いたか」


「ええ。ラベンダーとカモミールの違いを確かめに行ったと」


「それだけではなかったが」


「知っています」


 セイルは少し目を伏せた。照れているのか、困っているのか、今のソフィアには少し分かってきていた。この人は、感情が顔に出ないのではなく、出し方を知らないのだと。


「嬉しそうにしているとき、知りたかったのですか」


「……ああ」


「なぜ?」


 セイルは少し考えた。


「俺がいないときのあなたを、知りたかった。俺の前でのあなたではなく」


 ソフィアは、その答えを受け取った。


 俺がいないときのあなた。五年間、屋敷でのソフィアしか見ていなかった男が、そういうことを言う。


「変わりましたね」


「そうか」


「ええ。王都にいた頃のあなたは、そういうことを聞かなかった。聞こうとしなかった」


「……分かっている」


「責めているわけではありません。ただ、変わったと思って」


 セイルは少し黙った。それから、珍しく自分から続けた。


「あなたがいなくなってから、初めて気づいたことがたくさんあった。屋敷の中に、あなたの痕跡がどこにでもあって……俺がいかに見ていなかったかを、毎日突きつけられた」


「屋敷の中に?」


「調度品の並べ方。廊下の花。食卓の器の選び方。全部、あなたが整えたものだった。なのに、あなたがいる間は一度も気づかなかった」


 ソフィアは少し目を細めた。


「気づいてほしかったわけでは、なかったけれど」


「それが問題だ」


 セイルが、少し低い声で言った。


「気づいてほしいとも思わないほど、あなたは諦めていた。それが、俺のしたことの結果だった」


 ソフィアは答えなかった。


 否定はできなかった。本当のことだから。でも、今日はそれを責める気持ちより、別の何かの方が大きかった。


 この人は、ちゃんと分かっている。


 分かった上で、こうして言葉にしている。それが、変わったということだと思った。


「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「屋敷に戻ったとき、何が一番辛かったですか」


 セイルは少し驚いた顔をした。こういう問いを、ソフィアがするとは思っていなかったのかもしれない。


 少し考えてから、答えた。


「……ソフィアの部屋の前を、通るたびに」


「部屋の前?」


「扉が閉まっている。中には誰もいない。それが分かっていても、通るたびに足が止まった」


 ソフィアは、その言葉をゆっくりと受け取った。


 五年間、その扉を開けに来なかった人が、今は通るたびに足が止まると言っている。


——遅い、とは思う。


 思う。でも、遅くても、変わったことは本当だった。


 庭の薬草が、昼の風に揺れていた。ラベンダーの香りが、ほんのりと漂った。


「セイル様」


「何だ」


 ソフィアは少し間を置いた。


「あなたのことを、少しずつ知りたいと思っています」


 セイルが、ソフィアを見た。


「五年間、知れなかった分を。これから、少しずつ」


 セイルは黙っていた。長い沈黙だった。


 それから、静かに言った。


「……俺も」


 二文字だった。でも、その二文字に、たくさんのものが詰まっていた。


 ソフィアは頷いた。


 庭のラベンダーが、また風に揺れた。穏やかな、春の午後だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ