表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/57

第三十六話 静かな覚悟【ソフィア視点】

第三十六話 静かな覚悟【ソフィア視点】


 カトリーナが来てから、三日が経った。


 その三日間、ソフィアはいつも通りに過ごした。薬草店に通い、エミリアと話し、マリアの淹れるお茶を飲んだ。広場の薔薇の様子を見に行き、老人と短い言葉を交わした。何も変わらない日々だった。


 変わらない日々の中で、何かがゆっくりと固まっていく感覚があった。


 急いでいなかった。焦ってもいなかった。ただ、毎朝目が覚めるたびに、自分の中の何かが少しずつ形を持ち始めているのが分かった。



 三日目の夜、マリアがそっと部屋に来た。


「少し、よろしいでしょうか」


「ええ」


 マリアは部屋の入口に立ったまま、珍しく少し迷うような顔をした。それから、静かに言った。


「旦那様から、手紙が届いております」


 ソフィアは少し驚いた。セイルから手紙が来たことは、五年間で数えるほどしかなかった。それも、用件だけを書いた短いものばかりだった。


「いつ?」


「今日の昼過ぎに。お渡しするタイミングを、計っておりました」


 マリアらしかった。すぐに渡さず、時機を見ていた。


「ありがとう」


 手紙を受け取った。セイルの字だった。几帳面で、少し硬い字。でも、いつもより少しだけ、力が抜けているような気がした。



 封を開けた。


 長くはなかった。だが、用件だけでもなかった。


 王都での仕事が片付きつつあること。薔薇庭園の手入れを始めたこと。近いうちにまた行くが、都合の悪いときは言ってほしいこと。


 そして最後に、一行だけ。


 ——今度行ったとき、庭の話をしてもいいですか。あなたが作った庭のことを、もっと聞きたい。


 ソフィアは、その一行を二度読んだ。


 庭の話を聞きたい。あなたが作った庭の話を。


 五年間、一度も言われなかった言葉だった。庭のことを、誰かに聞いてもらったことがなかった。なぜあそこに薔薇を植えたか。どの品種を選んだか。最初の冬に一株枯れそうになって、どうやって持ち直したか。そういうことを、ソフィアは誰にも話したことがなかった。


——聞きたい、か。


 その言葉の重さを、ゆっくりと受け取った。


 セイルが変わろうとしている。それは、この一ヶ月で少しずつ分かっていた。でも、こういう形で示されると、また少し違った重さがあった。



 翌朝、ソフィアは返事を書いた。


 短い手紙だった。都合の悪い日はないこと。庭の話は、してもいいということ。


 それから、少し迷って、一行付け加えた。


 ——薔薇は三種類植えました。それぞれに理由があります。来たとき、話します。


 書き終えて、読み返した。たった二行だった。でも、この二行を書くのに、ずいぶん時間がかかった気がした。


 マリアに頼んで、出してもらった。



 昼前に、広場に出た。


 薔薇の株のそばに、今日も老人がいた。水差しを持って、ゆっくりと花に水をやっていた。


「今日も来ましたね」


「ええ、少し気になって」


 老人は薔薇の芽を見ながら言った。


「だいぶ伸びてきました。もう少ししたら、蕾が出るかもしれない」


「そんなに早く?」


「この株は早咲きなんですよ。毎年、他より先に咲く。急ぐわけでもないのに、いつも一番乗りで」


 老人が目を細めて笑った。


 ソフィアも、つられて少し笑った。


 急ぐわけでもないのに、一番乗りで。


 その言葉が、なぜか胸に残った。



 エミリアの家に戻る道で、ソフィアは少し立ち止まった。


 空は高く、雲が少なかった。春が深まっていく空の色だった。


 覚悟、という言葉を、ソフィアは今まであまり好きではなかった。覚悟という言葉には、何かを犠牲にするような響きがあった。歯を食いしばって、痛みを受け入れるような。


 でも今感じているのは、そういうものではなかった。


 もっと静かなものだった。


 セイルと向き合うこと。話を続けること。答えをまだ出さないこと。そして、いつか、自分の言葉で答えを出すこと。そのどれも、犠牲でも義務でもなかった。


 自分が、そうしたいと思っている。


 それだけだった。


——静かな覚悟、というものがあるとすれば、これかもしれない。


 歯を食いしばらない。痛みを無理に受け入れない。ただ、自分の意志で、前を向く。


 エミリアの家の煙突から、煙が上がっていた。昼食の支度をしているのだろう。マリアも手伝っているかもしれない。


 ソフィアは歩き始めた。


 急がなかった。でも、止まらなかった。


 春の道を、自分の歩幅で、まっすぐに歩いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ