第三十六話 静かな覚悟【ソフィア視点】
第三十六話 静かな覚悟【ソフィア視点】
カトリーナが来てから、三日が経った。
その三日間、ソフィアはいつも通りに過ごした。薬草店に通い、エミリアと話し、マリアの淹れるお茶を飲んだ。広場の薔薇の様子を見に行き、老人と短い言葉を交わした。何も変わらない日々だった。
変わらない日々の中で、何かがゆっくりと固まっていく感覚があった。
急いでいなかった。焦ってもいなかった。ただ、毎朝目が覚めるたびに、自分の中の何かが少しずつ形を持ち始めているのが分かった。
三日目の夜、マリアがそっと部屋に来た。
「少し、よろしいでしょうか」
「ええ」
マリアは部屋の入口に立ったまま、珍しく少し迷うような顔をした。それから、静かに言った。
「旦那様から、手紙が届いております」
ソフィアは少し驚いた。セイルから手紙が来たことは、五年間で数えるほどしかなかった。それも、用件だけを書いた短いものばかりだった。
「いつ?」
「今日の昼過ぎに。お渡しするタイミングを、計っておりました」
マリアらしかった。すぐに渡さず、時機を見ていた。
「ありがとう」
手紙を受け取った。セイルの字だった。几帳面で、少し硬い字。でも、いつもより少しだけ、力が抜けているような気がした。
封を開けた。
長くはなかった。だが、用件だけでもなかった。
王都での仕事が片付きつつあること。薔薇庭園の手入れを始めたこと。近いうちにまた行くが、都合の悪いときは言ってほしいこと。
そして最後に、一行だけ。
——今度行ったとき、庭の話をしてもいいですか。あなたが作った庭のことを、もっと聞きたい。
ソフィアは、その一行を二度読んだ。
庭の話を聞きたい。あなたが作った庭の話を。
五年間、一度も言われなかった言葉だった。庭のことを、誰かに聞いてもらったことがなかった。なぜあそこに薔薇を植えたか。どの品種を選んだか。最初の冬に一株枯れそうになって、どうやって持ち直したか。そういうことを、ソフィアは誰にも話したことがなかった。
——聞きたい、か。
その言葉の重さを、ゆっくりと受け取った。
セイルが変わろうとしている。それは、この一ヶ月で少しずつ分かっていた。でも、こういう形で示されると、また少し違った重さがあった。
翌朝、ソフィアは返事を書いた。
短い手紙だった。都合の悪い日はないこと。庭の話は、してもいいということ。
それから、少し迷って、一行付け加えた。
——薔薇は三種類植えました。それぞれに理由があります。来たとき、話します。
書き終えて、読み返した。たった二行だった。でも、この二行を書くのに、ずいぶん時間がかかった気がした。
マリアに頼んで、出してもらった。
昼前に、広場に出た。
薔薇の株のそばに、今日も老人がいた。水差しを持って、ゆっくりと花に水をやっていた。
「今日も来ましたね」
「ええ、少し気になって」
老人は薔薇の芽を見ながら言った。
「だいぶ伸びてきました。もう少ししたら、蕾が出るかもしれない」
「そんなに早く?」
「この株は早咲きなんですよ。毎年、他より先に咲く。急ぐわけでもないのに、いつも一番乗りで」
老人が目を細めて笑った。
ソフィアも、つられて少し笑った。
急ぐわけでもないのに、一番乗りで。
その言葉が、なぜか胸に残った。
エミリアの家に戻る道で、ソフィアは少し立ち止まった。
空は高く、雲が少なかった。春が深まっていく空の色だった。
覚悟、という言葉を、ソフィアは今まであまり好きではなかった。覚悟という言葉には、何かを犠牲にするような響きがあった。歯を食いしばって、痛みを受け入れるような。
でも今感じているのは、そういうものではなかった。
もっと静かなものだった。
セイルと向き合うこと。話を続けること。答えをまだ出さないこと。そして、いつか、自分の言葉で答えを出すこと。そのどれも、犠牲でも義務でもなかった。
自分が、そうしたいと思っている。
それだけだった。
——静かな覚悟、というものがあるとすれば、これかもしれない。
歯を食いしばらない。痛みを無理に受け入れない。ただ、自分の意志で、前を向く。
エミリアの家の煙突から、煙が上がっていた。昼食の支度をしているのだろう。マリアも手伝っているかもしれない。
ソフィアは歩き始めた。
急がなかった。でも、止まらなかった。
春の道を、自分の歩幅で、まっすぐに歩いた。




