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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第三十五話 レイナ、去る【ソフィア視点】

第三十五話 レイナ、去る【ソフィア視点】


 翌朝、エミリアからもう一通の手紙が届いた。


 同じ差出人だった。昨日の続きを書き足したような、短い手紙だった。エミリアがソフィアに無言で差し出した。


 ソフィアは読んだ。


 レイナが王都を出る日、見送りに来た者はほとんどいなかったという。外交随行として華やかに入城したときとは、まるで違う出立だったと。馬車は一台、供は少なく、見送りの貴族もなく、ひっそりと朝の門を出ていったという話だった。


 それだけだった。


 ソフィアは手紙を折って、エミリアに返した。


「そう」


「それだけ?」


「それだけ」


 エミリアが少し拍子抜けした顔をした。もっと何か言うと思っていたのだろう。でもソフィアには、それ以上の言葉が出てこなかった。


 哀れだとは思わなかった。自業自得だとも思わなかった。ただ、そういうものだと思った。計算の上で動いた人間が、計算通りにいかなかったとき、残るものはそういう出立になる。



 午前中、薬草店で仕事をしながら、ソフィアはレイナのことを少しだけ考えた。


 レイナ・フォン・アルヴァという女を、ソフィアは最初から好きではなかった。社交的な笑顔の裏に何かがあることは、会った最初から感じていた。それでも、その「何か」の正体を深く探ろうとしなかった。


 なぜか。


 探れば、見たくないものが見えると分かっていたからだ。


 見ないことで、侯爵夫人でいられた。知ってしまえば、飲み込めなくなる。だから目を向けなかった。その選択は、当時の自分には必要なものだったと、今は思う。


 でも、代償はあった。


 見ないことで守ったものと、見なかったことで失ったものが、五年間の両側にある。


「ソフィア、手が止まってるよ」


 エミリアが言った。ソフィアは我に返って、カモミールの仕分けに戻った。


「ごめん、少し考えていた」


「レイナのこと?」


「そうね。でも、もう終わりにしようと思って」


「終わり?」


「考えるのを。レイナ様のことは、もう終わった話だから」


 エミリアは少し黙ってから、頷いた。


「そうだね。終わった話だ」


 カモミールの香りが、指先に広がった。穏やかな、甘い香りだった。この香りが好きになっていた。王都にいたときは、こういう香りを意識したことがなかった。



 昼過ぎに、思いがけない来客があった。


 扉を叩く音がして、マリアが出ると、見知らぬ女性が立っていた。三十代ほど、質素だが清潔な装いの、落ち着いた雰囲気の人だった。


「ソフィア・アーデル様にお目にかかりたいのですが」


 旧姓で呼ばれた。ソフィアは少し驚いた。


「私ですが」


「突然の訪問をお許しください。私、カトリーナと申します。以前、ヴァルト侯爵家に仕えておりました」


 ソフィアは記憶を探った。カトリーナ。その名前は、聞いたことがあった。セイルが侯爵になる前から仕えていたという、古い使用人の一人だったはずだ。


「中へどうぞ」


 通してから、マリアがお茶を出した。カトリーナは礼儀正しく座って、少しの間黙っていた。それから、静かに口を開いた。


「旦那様から言われてきたわけではありません。私が来たかったから来ました」


「そうですか」


「奥様がこちらにいらっしゃると、旦那様から聞きました。旦那様はここへ来たことも」


「はい」


「奥様に、一つだけお話ししたいことがあって」


 ソフィアは頷いた。促すように。


「旦那様は……変わられました。奥様が出られてから、人が変わったように」


「どのように」


「書斎に籠もって、食事も取らない日が続きました。字が乱れていました。あの方の字が乱れるのを、私は二十年仕えて初めて見ました」


 ソフィアは黙って聞いた。


「それから、お一人でこちらへ発たれて、戻ってこられてからは……薔薇庭園の手入れを、ご自分で庭師に指示されました。私に庭師から聞いた話ですが、旦那様が直接、水を切らすなとおっしゃったそうです」


 ソフィアの胸の中で、何かがゆっくりと動いた。


「なぜ、私にそれを話しに?」


「……二十年、あの方を見てきました。あの方は、気持ちを言葉にすることが、ひどく不得手な方です。行動でしか、表せない。それが伝わっているかどうか、私には分からなかったので」


 カトリーナは、まっすぐにソフィアを見た。


「伝わってほしいと思って、来ました」


 ソフィアは少しの間、その顔を見た。


 二十年仕えた使用人が、主人のために、こんな遠くまで来た。頼まれてでもなく、ただ伝わってほしいと思って。


「……ありがとうございます」


 ソフィアはそれだけ言った。他に言葉が出てこなかった。


 カトリーナは深く頭を下げて、お茶を一口飲んでから、静かに辞した。



 夕方、ソフィアは一人で広場に出た。


 薔薇の株のそばに立った。先日より、芽が伸びていた。小さな葉が開きかけている。


——水を切らすな。


 セイルがそう言ったという。直接。自分では言葉にできない男が、行動で示したこと。


 ソフィアは空を見上げた。夕暮れが始まっていた。橙と紫が混じった、静かな色の空だった。


 レイナは去った。


 その事実が、今日初めて、本当の意味でソフィアの中に落ちた。終わった話として、ではなく——新しい何かが始まる余白として。


 薔薇の芽が、夕風に揺れた。


 ソフィアはしばらそこに立ってから、エミリアの家へ戻った。


 夕食の匂いが、遠くから漂ってきた。



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