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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第三十四話 レイナの化けの皮【ソフィア視点】

第三十四話 レイナの化けの皮【ソフィア視点】


 その日の午後、エミリアが珍しく早く店を閉めた。


「ちょっといい?」


 声のトーンが、いつもと少し違った。明るくも、深刻でもない。何かを持て余しているような声だった。


 ソフィアは手を止めた。


「何?」


「話があって。というか……聞いてほしいことがあって」


 エミリアが食卓に封を切った手紙を置いた。差出人を見て、ソフィアは少し目を細めた。


 王都の、知り合いからだった。エミリアとも顔見知りの、社交界の端に出入りする商家の女性だった。


「読んでいい?」


「うん。それで話したかったから」


 ソフィアは手紙を手に取った。



 内容は、王都の噂だった。


 レイナ・フォン・アルヴァが帰国したこと、それ自体はソフィアも知っていた。セイルから聞いていた。だが、手紙に書かれていたのはその先の話だった。


 レイナが王都にいた間、社交界で何をしていたか。


 表向きは外交随行だった。だが実際には、複数の貴族家に接触していたらしかった。ヴァルト侯爵家だけでなく、他の有力な家々にも。情報を集め、人脈を広げ、自国の利益になる関係を構築しようとしていた、という話だった。


 そして、ソフィアに関わる部分が一つあった。


 レイナがヴァルト侯爵夫人について、社交界で何度か話していたというのだ。完璧すぎる侯爵夫人は夫の心を縛る、という言い方で。さりげなく、でも繰り返し。


 ソフィアは手紙を読み終えて、食卓に置いた。


「……そういうことだったのね」


 怒りが来るかと思った。だが来なかった。代わりに来たのは、妙な納得感だった。


「怒らないの?」エミリアが少し驚いた顔で言った。


「怒る気力より、腑に落ちる気持ちの方が大きくて」


「腑に落ちる?」


「レイナ様が計算していたことは、薄々感じていた。社交の場での振る舞いが、あまりに的確だったから。でも、ここまでとは思っていなかった」


 ソフィアは窓の外を見た。今日は曇っていた。光が柔らかく、影がない。


「ソフィアは、それでもセイル様を責めないの?」


 エミリアの問いは、真剣だった。責めてもいいと言っている声だった。


 ソフィアは少し考えた。


「責める気持ちが、ないわけじゃない。レイナ様が計算していたとしても、乗ったのはセイルだから。選んだのは、あの人だから」


「そうだよ」


「でも……レイナ様のことを知って、セイルのことが少し分かった気がするの」


「どういうこと?」


 ソフィアは言葉を選んだ。


「セイルは、私のことが読めなかったと言った。レイナ様は読みやすかった。読みやすい方へ流れた。それは弱さだと思う。でも……私も、読めない相手に踏み込まなかった。同じ弱さを、私も持っていた」


 エミリアは少し黙った。


「それは、自分を責めてるの?」


「違う。ただ、同じ弱さを持つ者同士が、うまく噛み合わなかったと思って。レイナ様はその隙間に入り込んだ。でも、隙間を作ったのは私たちだった」


「……難しいね、ソフィアの頭の中は」


 エミリアが苦笑した。ソフィアも、少し笑った。



 夕方、マリアに声をかけた。


「マリア、レイナ様のこと、知っていた?」


 マリアは少しの間、黙った。それから、静かに答えた。


「全てではありませんが……社交の場でのご様子は、気になっておりました」


「なぜ言わなかったの」


「ソフィア様が、聞かなかったから」


 短い答えだった。だが、そこには責めも言い訳もなかった。事実だけがあった。


 ソフィアは聞かなかった。知りたくなかったのかもしれない。知ったら、飲み込めなくなると思っていたのかもしれない。


「そうね。私が聞かなかった」


「ソフィア様」


 マリアが、珍しく続けた。


「レイナ様がどういうお方であったにせよ、ソフィア様が五年間耐えてこられたことは、変わりません。それは、誰にも否定できないことです」


 ソフィアは、マリアの顔を見た。


 五年間、そばにいた人だった。全部を見ていた人だった。その人が、今初めてこういう言葉を言った。


「……ありがとう、マリア」


 マリアは小さく首を振った。でも、その目が少し潤んでいた。



 夜、ソフィアは一人で窓の花を見た。


 セイルが置いていった野の花は、少し枯れかけていた。花びらの端が茶色くなっていた。でも、まだそこにあった。


 レイナのことが分かって、何かが変わったかと問われれば、変わったとは言えなかった。怒りは来なかった。悲しみも、思ったより小さかった。


 ただ、一つだけ、はっきりしたことがあった。


——あの五年間は、私のせいではなかった。


 当たり前のことかもしれない。でも、どこかでずっと、自分に問い続けていた。私が完璧すぎたから。私が踏み込まなかったから。私がもっと上手くやれば、違ったのではないかと。


 そうではなかった。


 隙間はあった。でも、その隙間に入り込まれたことの責任は、ソフィアにはない。選んだのは、セイルだった。


 そしてセイルは今、その選び間違いを抱えて、この町まで来た。


 枯れかけた野の花を、ソフィアは少し直した。花瓶の水を替えた。


 もう少しだけ、そこに置いておこうと思った。



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