第三十三話 選び間違えた侯爵【セイル視点】
第三十三話 選び間違えた侯爵【セイル視点】
王都に戻って十日が経った頃、レイナから手紙が届いた。
差出人を見て、セイルは少し手が止まった。アルヴァ公爵家の封蝋だった。隣国から、わざわざ。
開けるかどうか、一瞬考えた。だが、開けないという選択肢はなかった。外交上の相手でもある。無視することは、別の問題を生む。
封を開けた。
文字は、相変わらず流麗だった。レイナの手紙はいつもそうだった。読みやすく、整っていて、感情が滲まない。
内容は短かった。
王都を離れたことへの挨拶。父公爵の体調が優れないため帰国したこと。そして最後に、一行だけ。
——あなたが選ぶべき人は、最初から分かっていたはずです。
セイルは、その一行を二度読んだ。
責めているのか、許しているのか、あるいは別の何かなのか、判断がつかなかった。レイナという女は、最後までそういう書き方をする。読む者に解釈を委ねる。それが計算なのか、本質なのか、今のセイルには興味がなかった。
ただ、その一行だけは、事実だと思った。
——最初から、分かっていたはずだ。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。だが、選ぶべき方向は、最初からソフィアの側にあった。それを見ようとしなかった。
手紙を折って、机の引き出しにしまった。返事は、後で書く。外交上の礼儀として、短く。それだけでいい。
レイナのことを、この十日間で何度か考えた。
あの一年間は何だったのか、という問いを、誤魔化さずに考えた。
レイナは聡明だった。社交的で、話しやすく、セイルの話をよく聞いた。それは本当だった。だが今は、その「聞いた」という行為の中身が、少し違って見える。
レイナはセイルの話を聞きながら、セイルが何を求めているかを測っていた。測った上で、それを与えた。承認、共感、理解。セイルが欲しいと気づいていなかったものを、的確に差し出した。
巧みだった。悪意があったかどうかは分からない。だが、計算はあった。
そしてセイルは、その計算に乗った。
——なぜ乗ったのか。
簡単だったからだ。
ソフィアと向き合うことは、難しかった。読めない相手と、扉を開けることは、怖かった。だがレイナとは、何もしなくても距離が縮まった。向こうから来てくれた。踏み込まなくても、踏み込んでもらえた。
それに甘えた。
甘えながら、どこかで知っていた。これは本物ではないと。簡単に手に入るものには、相応の理由がある。だが、知っていても、楽な方へ流れた。
それが、選び間違いだった。
夕方、庭師を呼んだ。
「薔薇庭園の手入れを頼みたい」
庭師は少し驚いた顔をした。もともとソフィアが管理していた庭だ。セイルが直接指示を出すことは、これまでなかった。
「どのようにいたしましょうか」
「枯れた枝を落として、肥料を入れてくれ。あとは、水を切らすな」
「はい。旦那様、実は……芽が出ております。霜の後でしたが、思ったより元気で」
「知っている。戻った日に見た」
庭師は少し目を細めた。何かを言いたそうだったが、言わなかった。それでいいと、セイルは思った。
庭師が下がってから、セイルは一人で薔薇庭園に立った。
夕方の光が、芽吹きかけた枝を横から照らしていた。新しい葉が、橙色の光を透かしていた。柔らかい色だった。
この庭を作ったとき、ソフィアは何を思っていたのだろう。
空白を埋めたかった、とあの町で言っていた。好きな花を、毎日目にする場所に。それだけの理由だったと。
それだけの理由で、こんなに丁寧に作った庭だった。
セイルは芽の一つに、そっと触れた。小さく、柔らかい芽だった。折れそうで、でも確かに張りがあった。
——選び間違えた。
その言葉を、今夜は声に出した。誰もいない庭で、夕暮れの光の中で。
言葉にすると、少し軽くなった。抱えているものが消えたわけではない。だが、ちゃんと認めることと、認めないことは、違った。
間違えた。それは変わらない事実だ。
だが、間違えたことが分かったなら、次は間違えない選択をする。それだけだ。
夕暮れが深くなっていく。庭の色が、橙から紫へ変わり始めた。
セイルは薔薇庭園を後にして、屋敷へ戻った。
書くべき返事がある。片付けるべき仕事がある。そして、また行く日を、そろそろ決めなければならない。
ソフィアに会いに行く日を。




