第三十二話 セイルの後悔【セイル視点】
第三十二話 セイルの後悔【セイル視点】
王都に戻って五日が経った。
仕事は、思ったより早く片付いた。溜まっていた書類を処理して、陛下への報告を済ませて、待たせていた案件に返答した。体が動いている間は、考えずに済んだ。問題は、夜だった。
書斎の蝋燭が一本になる頃、手が止まる。止まると、考え始める。考え始めると、止まらなくなる。
今夜もそうだった。
机の上の書類を全て片付けて、蝋燭の火を見つめながら、セイルは椅子に深く座った。
——後悔、という言葉を、今まであまり使ったことがなかった。
過去を振り返ることに、意味を見出さない性質だった。判断を下したら前を向く。間違いがあれば修正する。後悔という感情は、前進の邪魔になるだけだと、そう思っていた。
だが今は、後悔している。
しかも、修正できない類の後悔だった。過去に戻ることはできない。あの五年間をやり直すことはできない。ソフィアが飲み込んできたものを、なかったことにはできない。
修正できない後悔を抱えることが、これほど重いとは知らなかった。
記憶が、勝手に蘇ってくる夜があった。
二年目の冬のことだった。
ソフィアが体調を崩したことがあった。大した病ではなかった。熱が二日続いて、三日目には下がった。マリアが付きっきりで看病していた。
セイルは、見舞いに行かなかった。
行こうとは思った。廊下でソフィアの部屋の前まで行って、扉の前で立ち止まった。ノックしようとして、やめた。何を言えばいいか分からなかった。心配しているとは言えた。だが、それだけを言いに入ることが、なぜかできなかった。
結局、マリアに「具合はどうか」と聞いて、「回復しております」という返事をもらって、それで終わりにした。
今思えば、あの扉をノックするだけでよかった。言葉は、後から出てきただろう。出てこなくても、顔を見せるだけでよかった。それだけのことが、できなかった。
——ソフィアは、どう思っただろう。
夫が来なかった、と思っただろう。当然だと思っただろうか。それとも、少しだけ待っていただろうか。
答えは出ない。今さら答えが出ても、何も変わらない。ただ、あの扉の前で踵を返した自分のことが、今夜は鮮明に思い出された。
三年目の春のことも、思い出した。
薔薇庭園が初めて満開になった年だった。赤と白と桃色の薔薇が、北側の庭を埋め尽くした。ソフィアが朝早くから水をやっているのを、書斎の窓から見ていた。
綺麗だと思った。庭のことではなく、ソフィアのことを。朝の光の中で花に向かっているその姿が、今まで見たどんなソフィアとも違って見えた。仮面のない顔をしていた。
窓から離れて、書類に向かった。
声をかけなかった。
——なぜ。
今夜は、その問いを誤魔化さずに考えた。
怖かった。綺麗だと思ったことを、言葉にすることが怖かった。言葉にしたら、何かが始まる。始まったものに、応えなければならない。その責任から、逃げた。
臆病だった。
国王陛下の信頼を得た侯爵が、妻に綺麗だと言うことを怖れていた。そういう男だった。
蝋燭の火が、小さく揺れた。
窓の外は静かだった。王都の夜は、この屋敷の中まで音が届かない。ソフィアがいた頃も、こういう静かな夜が何百回もあった。それぞれの部屋で、それぞれに夜を過ごしていた。
——もし、あのとき声をかけていたら。
たられば、だと分かっていた。分かっていても、今夜はその問いを捨てられなかった。
扉の前で踵を返した冬の夜。書斎の窓から離れた春の朝。名前を呼ばなかった五年間。白薔薇をレイナへ贈った朝。
一つ一つは、小さなことだったかもしれない。だが積み重なって、五年間になった。積み重なった重さが、離縁状になった。
後悔は、一つの大きな出来事にあるのではなかった。
小さな選択の、一つ一つにあった。
夜が深くなった。
セイルは蝋燭を消して、立ち上がった。書斎を出て、廊下を歩いた。
ソフィアの部屋の前を、通った。
今はもう、ソフィアのものではない部屋だった。荷物は全て持っていかれている。使用人が掃除はしているが、誰も使っていない。扉は閉まっている。
セイルは立ち止まった。
扉を見た。二年目の冬に、ノックできなかった扉だった。
今夜は、ノックしなかった。する意味がない。中には誰もいない。
ただ、立ち止まった。それだけだった。
あのとき、ここを叩けなかった自分のことを、今夜は静かに、ちゃんと後悔した。
責め続けるつもりはなかった。だが、なかったことにもしたくなかった。
後悔を抱えたまま、前へ進む。それが今の自分にできる、唯一のことだった。
廊下を歩いて、自分の寝室へ向かった。
明日も、仕事がある。やるべきことがある。そして、また行く日が来る。
その日まで、ここでちゃんと立っていなければならない。




