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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第三十一話 取り戻せないもの【セイル視点】

第三十一話 取り戻せないもの【セイル視点】


 屋敷に戻って、最初にしたことは薔薇庭園を見ることだった。


 報告書も、着替えも、後でいいと思った。馬を降りて、そのまま北側の庭へ向かった。従者が何か言いかけたが、構わなかった。


 庭は、思ったより荒れていなかった。


 ソフィアがいなくなってから三週間以上が経っている。誰も手入れをしていなかった。それでも、薔薇の株はちゃんとそこにあった。枝の何本かは霜にやられて黒ずんでいた。だが根元を見ると、新しい芽が出ていた。小さく、でも確かに、上へ向かって伸びていた。


——しぶとい。


 思わずそう思った。誰も水をやらなくても、誰も気にかけなくても、春になれば芽吹く。ソフィアが植えたものは、ソフィアがいなくなっても、ちゃんと生きていた。


 セイルはしばらく、その芽を見ていた。


 嫁いで最初の春に、ソフィアがここに土を入れて、苗を植えているのを見た。遠くから見ていた。声をかけなかった。近づかなかった。あのとき声をかけていたら、何かが変わっていただろうか。


 変わっていたかもしれない。変わっていなかったかもしれない。今となっては、分からない。


 分からないことが、取り戻せないものの重さだった。



 書斎に入ると、机の上がそのままになっていた。


 王都を出る前に積み上げた書類が、手つかずで残っていた。使用人が整理しなかったのは、主人の戻りを待っていたからだろう。セイルは椅子に座って、書類の束を引き寄せた。


 一番上が、国王陛下からの書簡だった。


 封を開けた。几帳面な文字で、短く書かれていた。報告が遅れていること、早急に参内するよう、それだけだった。叱責ではなかった。だが、陛下が待っているということは分かった。


 翌朝、参内した。


 国王陛下は、謁見の間ではなく執務室に通してくれた。それだけで、今回の会談の性質が分かった。公式の場ではなく、個人としての話をするつもりだということ。


「戻ったか、セイル」


 陛下は書類から顔を上げずに言った。五十代の、落ち着いた声だった。


「申し訳ございません。ご報告が遅れました」


「構わない。座れ」


 セイルは指定された椅子に座った。陛下はしばらく書類を見てから、静かに顔を上げた。


「聞いている。妻のことを」


「……はい」


「責めるつもりはない。ただ、一つだけ聞かせてくれ」


 陛下の目は、穏やかだった。長年セイルを見てきた目だった。


「お前は今、何をしたいのだ」


 セイルは少しの間、黙った。


「……取り戻したいと思っています」


「取り戻す、とは」


「失った時間のことではありません。それは取り戻せない。ただ……ソフィアと、もう一度向き合う機会を。それだけです」


 陛下は少し目を細めた。


「随分と、素直になったな」


「……そう言われると、返す言葉がありません」


「お前は昔から、頭が良すぎた。頭が良いから、感情を処理する前に答えを出す。答えを出してしまうから、感じることをしなかった」


 セイルは何も言わなかった。反論できなかった。


「妻を失って、初めて感じたか」


「……はい」


 陛下は短く息を吐いた。責めるのでもなく、同情するのでもなく、ただ事実として受け取るような息だった。


「仕事の遅れは取り戻せる。それ以外のことは、お前自身でやれ。口は挟まん」


「ありがとうございます」


「ただし」陛下は書類に視線を戻しながら言った。「次の報告は期日通りに持ってこい」


「はい」


 執務室を出て、廊下を歩きながら、セイルは陛下の言葉を頭の中で繰り返した。


 感情を処理する前に答えを出す。感じることをしなかった。


——その通りだった。


 ソフィアを前にしても、そうだった。読めないから近づけない、という答えを早々に出して、感じることをやめた。レイナを前にしても、楽だという答えを出して、その先を見なかった。


 答えを出すことと、向き合うことは、違う。


 その違いを、五年間分からなかった。



 屋敷に戻る道で、花屋の前を通った。


 ちょうど、春の花が並び始めていた。色とりどりの、鮮やかな花だった。セイルは少し立ち止まった。


 あの町で摘んだ野の花を思い出した。道端で見つけて、大した考えもなく持っていった。渡すとき、言葉が上手く出なかった。それでも、ソフィアは受け取ってくれた。


 取り戻せないものは、確かにある。五年間の時間は戻らない。ソフィアが飲み込んできたものは、なかったことにはならない。


 だが、これから積み上げることは、できる。


 セイルは花屋の前を通り過ぎた。今日は買わなかった。まだその段階ではないと思った。


 ただ、次に行くとき、何を持っていくかを、少しだけ考えた。


 屋敷への道を、まっすぐ歩いた。


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