第三十話 セイル、気づく【セイル視点】
第三十話 セイル、気づく【セイル視点】
王都への道は、来たときより長く感じた。
馬を走らせながら、セイルはほとんど喋らなかった。従者は慣れたもので、何も聞いてこなかった。街道沿いの景色が後ろに流れていく。来るときは気にも留めなかった木々の色が、今日はやけに目に入った。
早春の色だった。まだ完全には緑になっていない、黄みがかった柔らかい色。何かが始まりかけている色だと、セイルは思った。
あの町を出るとき、ソフィアは見送りに出なかった。
当然だと思った。見送る義理は、今のソフィアにはない。それでも、宿を出て馬に乗るとき、薬草店の方をちらりと見た。窓に、野の花が飾られているのが見えた。自分が昨日渡したものだった。
まだ飾ってくれていた。
それだけのことが、胸に引っかかったまま、街道を半日走っていた。
——なぜ、今まで気づかなかった。
何度目かの問いだった。王都を出てからずっと、この問いが頭を離れない。だが今日は、少し違う角度から問いが来た。
ソフィアが、何を求めていたか。
花ではない。贈り物でもない。豪奢な生活でもない。ソフィアはそういうものを求める女ではなかった。五年間、屋敷の管理を完璧にこなして、社交の場で誰からも賞賛され、何も要求しなかった。
何も要求しなかった。
そこに、引っかかりがあった。
要求しなかったのか。それとも、要求できなかったのか。あるいは——要求することを、最初から諦めていたのか。
この町での五日間で、ソフィアは少しずつ話してくれた。飲み込んできたものを。泣かないと誓った夜のことを。完璧でいることで、傷つかないようにしていたことを。
聞きながら、セイルは何度も胃が重くなった。
そういう女が、隣にいた。そういう時間が、五年間あった。なのに自分は、その重さを一度も受け取ろうとしなかった。
——受け取る気がなかったのではない。
気づかなかったのだ。
ソフィアが完璧すぎたせいだと、言い訳することもできる。だが違う。気づこうとしなかった。見ようとしなかった。扉を閉めたまま、隣にいる人間を見ることを、五年間怠った。
それが、全てだった。
宿場町で一泊して、翌朝また馬を走らせた。
王都が近づくにつれて、街道の人通りが増えた。商人、旅人、荷馬車。王都の喧騒が、少しずつ戻ってくる感覚があった。
屋敷に戻ることを、セイルは今、少し恐れていた。
あの屋敷には、ソフィアの痕跡がある。整えられた調度品。手入れされた廊下。薔薇庭園。どれもソフィアが五年間かけて作ったものだった。その中に一人で戻ることが、来るときより重く感じた。
来るときは、ただ急いでいた。会いに行くことだけを考えていた。だが今は——戻ることの意味を、考えている。
何のために戻るのか。
国王陛下への報告がある。仕事がある。それは本当だ。だが、それだけではない。戻ることには、もう一つの意味がある。
——ここから、始め直す。
王都の屋敷から。五年間間違え続けた場所から。逃げるのではなく、向き合うために戻る。
ソフィアはまだ、何も約束していない。また来ることを止めないと言っただけだ。それで十分だった。今は十分だった。
セイルが求めているのは、ソフィアに許してもらうことではない。許されたいという気持ちがないとは言えない。だが、それより先に、やるべきことがある。
自分が変わること。
五年間で作った距離を、言葉だけでなく、行動で埋めていくこと。それがどれほど時間のかかることか、セイルには分かっていた。ソフィアが信じるかどうかも、分からなかった。
それでも、やるしかなかった。
王都の門が見えてきた。
夕方の光を受けて、石造りの門が橙色に染まっていた。いつも見ている景色だった。なのに今日は、少し違って見えた。
門をくぐりながら、セイルはふと思った。
あの小さな町で、ソフィアは今日も薬草店に行っているだろう。エミリアと話して、マリアに茶を淹れてもらって、窓の花に水をやっているだろう。
そういう日常が、ソフィアにはある。
自分がいなくても、ちゃんとある。
それが少し寂しかった。寂しいと思う自分に、少し驚いた。セイル・ヴァルトが、誰かの日常を想って寂しいと思う日が来るとは、一年前には想像もしなかった。
——遅すぎた、と言った。
あの朝、扉の前で出た言葉だった。準備していた言葉ではなかった。だが、それが一番本当のことだった。
遅すぎた。でも、遅すぎたからといって、止まる理由にはならない。
屋敷の門が見えてきた。灯りがついていた。使用人が待っているのだろう。
セイルは馬の速度を緩めずに、まっすぐ門へ向かった。
やることは、決まっている。
報告書を書く。仕事を片付ける。薔薇庭園の手入れを、庭師に頼む。
そして、また行く。




