第三十七話 ソフィアの言葉【ソフィア視点】
第三十七話 ソフィアの言葉【ソフィア視点】
セイルが町に来たのは、手紙を出してから六日後だった。
今回は、前回より少し早い時刻だった。朝の鐘が鳴る前に、扉を叩く音がした。マリアが出て、ソフィアに告げた。
「旦那様がいらっしゃいました」
「通して」
今回は、少し違った。前回は扉の前で待たせた。今回は、すぐに通した。その違いを、ソフィア自身が一番よく分かっていた。
セイルが居間に入ってきた。旅の埃が少し残っていた。急いで来たのかもしれない。それとも、いつもそういう人なのかもしれない。ソフィアにはまだ、その区別がつかなかった。
「遠いところを」
「構わない」
短い挨拶だった。でも、ぎこちなくはなかった。前回よりも、少しだけ、二人の間の空気が柔らかかった。
お茶を二つ。食卓に向かい合って座った。
最初に口を開いたのは、ソフィアだった。
「手紙に、庭のことを書いてくださいましたね」
「ああ」
「なぜ、庭のことを聞きたいと思ったのですか」
セイルは少し間を置いた。
「戻った日に、庭を見た。芽が出ていた。誰も手入れをしていないのに、ちゃんと芽吹いていた。……あの庭がどういう気持ちで作られたのか、知りたいと思った」
ソフィアは、その答えを受け取った。
「嫁いで最初の春でした。北側の庭に、何もない場所があった。庭師に許可をもらって、薔薇を植えました」
「なぜ薔薇を?」
「アーデル家の庭に薔薇があって、子どもの頃から好きだったから。それだけです。あなたに何かを示すつもりも、屋敷を飾るつもりも、なかった。ただ、毎日目にする場所に、好きな花が欲しかった」
セイルは黙って聞いていた。
「三種類植えました。赤と、白と、淡い桃色」
「それぞれに理由がある、と書いていたな」
「ええ」
ソフィアは少し考えてから、続けた。
「赤は、アーデル家の庭にあったものと同じ品種です。故郷を持ち込みたかった。白は……正直に言うと、侯爵夫人らしい色だと思って。清廉で、整っていて。そういう自分でいなければと、思っていた頃だったから」
「桃色は?」
ソフィアは、少し間を置いた。
「それだけ、理由が違うんです。赤と白は、意味があって選んだ。でも桃色は……ただ、綺麗だったから。意味なんてなかった。ただ好きだったから、植えた」
言いながら、自分でも少し驚いた。こういうことを、誰かに話したことがなかった。五年間、誰にも聞かれなかったし、自分から言おうとも思わなかった。
「……意味のない方が、一番好きだった」
ソフィアは静かに続けた。
「侯爵夫人として、全てに意味を持たせようとしていた。立ち居振る舞いにも、言葉にも、選ぶものにも。でも、あの桃色の薔薇だけは、意味がなかった。それが、妙に自分らしい気がして」
セイルは、しばらく黙っていた。
「……知らなかった」
「聞いてもらったことがなかったから」
責める口調ではなかった。ただ、事実だった。
セイルは少し目を伏せた。それから、顔を上げた。
「三年目の春に、庭が満開になった朝のことを、覚えているか」
ソフィアは少し驚いた。
「……覚えています」
「書斎の窓から、見ていた」
「知っています。気づいていました」
今度は、セイルが少し驚いた顔をした。
「気づいていたのか」
「ええ。でも、声をかけてくださらなかったから、気づかないふりをしました」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
気づいていた。見ていた。それでも、どちらも何も言わなかった。すれ違いが、言葉になった瞬間だった。
「あの朝、綺麗だと思った」
セイルが言った。
「庭が?」
「庭も。あなたも」
ソフィアは、すぐには答えなかった。
五年間、一度も言われなかった言葉だった。今さら言われても、どう受け取ればいいか分からなかった。嬉しいとも、悲しいとも、違う何かが胸の中にあった。
「……なぜ、言わなかったのですか」
「怖かった」
「また、その言葉ですね」
「それしかない。本当のことだから」
ソフィアは少し息を吐いた。
「私もです」
「え?」
「あの朝、窓に誰かがいると気づいて……あなただと分かったとき、少し嬉しかった。でも、それを顔に出すことが怖かった。顔に出して、気づかれなかったら、もっと傷つくと思って」
言ってしまってから、ソフィアは少し驚いた。
こんなことを、言うつもりはなかった。でも、口から出た。セイルが本当のことを言ったから、自分も本当のことを言った。そういう流れだった。
セイルは何も言わなかった。
ただ、その濃紺の瞳が、まっすぐにソフィアを見ていた。今まで見たことのない目の色だった。何かをちゃんと見ようとしている目だった。
「一つ、聞いてもいいですか」
ソフィアが言った。
「どうぞ」
「あなたは今、私に何を求めていますか。前回、答えを急がないと言った。それは信じています。でも……あなた自身は、どこへ向かおうとしているのか、聞かせてもらえますか」
セイルは少しの間、黙った。
長い沈黙だった。言葉を探しているのか、それとも言葉にする勇気を探しているのか、ソフィアには分からなかった。
やがて、セイルは口を開いた。
「……もう一度、あなたの夫になりたい」
静かな言葉だった。飾りのない、ただの本音だった。
ソフィアは、その言葉を胸の中に置いた。すぐには答えなかった。答えるべき言葉が、今の自分にはまだなかった。
でも、受け取った。ちゃんと受け取った。
「……今日は、それだけ聞かせてもらえれば十分です」
「分かった」
窓の外で、鳥が鳴いた。春の、明るい声だった。
お茶は、いつの間にか冷めていた。でも、どちらも気にしなかった。




