第二十七話 ソフィアの朝【ソフィア視点】
第二十七話 ソフィアの朝【ソフィア視点】
セイルが帰った後、ソフィアはしばらく食卓に座ったままでいた。
動く気になれなかったわけではない。ただ、少しだけ、今起きたことを自分の中に落ち着かせる時間が必要だった。
窓の外では、町がいつも通りに動いていた。荷馬車が通り、子どもの声がして、薬草店の開店を告げる音がした。何も変わっていない。世界はいつも通りだった。
変わったのは、自分の中だけだ。
どう変わったかを、ソフィアはまだうまく言葉にできなかった。セイルが来た。話した。それだけのことが、思っていたより重かった。軽くもなく、押しつぶされるほど重くもなく——ただ、確かに重かった。
「ソフィア様」
マリアが、台所から顔を出した。
「お茶を淹れましょうか」
「……ええ、お願い」
マリアは何も聞かなかった。セイルとの話の内容も、ソフィアの今の気持ちも。ただ、静かに台所に戻って、湯を沸かし始めた。それがマリアだった。五年間、ずっとそうだった。
しばらくして、エミリアが店の方から戻ってきた。
「終わった?」
「ええ」
エミリアは向かいの椅子を引いて、どかりと座った。遠慮のない座り方だった。それがいつも通りで、ソフィアは少し息が楽になった。
「どうだった」
「……思っていたより、ちゃんとした人だった」
口に出してから、自分でも少し驚いた。思っていたより、という言葉が出るということは、どこかで別のものを想像していたということだ。
「ちゃんとした、というのは?」
「言い訳をしなかった。引き戻そうともしなかった。ただ……話をさせてほしいと言った」
エミリアは少し黙った。
「それで、ソフィアは何て言ったの」
「嘘をつかないことを条件に、聞くと言った」
エミリアがソフィアを見た。値踏みでも心配でもない、ただまっすぐな目だった。
「後悔してない?」
「今は、していない。明日どう思うかは分からないけれど」
「正直だね」
「あなたに嘘をついても仕方がないから」
エミリアが、小さく笑った。マリアがお茶を三つ持ってきて、静かに食卓に並べた。三人分。マリアなりの、参加の仕方だとソフィアは思った。
お茶を飲みながら、ソフィアは今朝のことを少しずつ整理した。
セイルは変わっていた。いや、正確には——変わろうとしていた。あの硬質な、何も見せない顔の奥に、昨日まではなかったものがあった。怖かった、という言葉が出たとき、ソフィアは少し驚いた。
あの人が、怖い、と言う。
五年間、感情を表に出すことのなかったセイルが。国王陛下の信頼を一身に受けた侯爵が。その人が、自分が怖かったと言った。
——私も、怖かった。
そう返した言葉は、本当のことだった。嫁いで最初の夜から、扉が閉まっていることは分かっていた。こじ開ける勇気がなかったことも、本当だ。完璧な侯爵夫人を演じることで、傷つかないようにしていたことも。
二人して、怖がっていた。
その事実を、今朝初めて言葉にした。五年間かけて、ようやく。
「ねえ、ソフィア」
エミリアが、カップを両手で包みながら言った。
「これからどうするつもり?」
「まだ分からない」
「セイル様のこと、許せそう?」
ソフィアは少し考えた。許す、という言葉の重さを確かめるように。
「許すかどうかより、先に……理解したいと思っている」
「理解?」
「あの人がなぜそうだったか。私がなぜ飲み込み続けたか。そこを理解しないまま許しても、何も変わらない気がするから」
エミリアはしばらく黙って、それからゆっくりと頷いた。
「……賢いね、ソフィアは」
「そんなことはないわ。ただ、同じことを繰り返したくないだけ」
「それが賢いってことだよ」
マリアが、静かに言った。
二人がマリアを見た。マリアは少し目を伏せて、カップを持ったままつぶやくように続けた。
「五年間、ソフィア様を見ていました。ソフィア様は、いつも正しい答えを出そうとしていた。でも今朝は……正しい答えではなく、本当のことを選んでいた。それが、今までと違うと思いました」
ソフィアは、マリアの言葉をゆっくりと受け取った。
正しい答えではなく、本当のこと。
そうかもしれない、と思った。今朝のソフィアは、どう答えるべきかではなく、自分がどうしたいかを考えていた。セイルの問いに対して、条件をつけたのも、そのためだった。正しい妻の対応ではなく、今の自分が必要だと思うことを言った。
「ありがとう、マリア」
マリアは小さく首を振った。
昼前になって、ソフィアは薬草店に向かった。いつも通りの時刻だった。
エミリアが仕分けの続きを任せてくれた。カモミールの花を選り分けながら、ソフィアは窓の外を時々見た。町はいつも通り動いていた。
セイルが今どこにいるかは分からない。宿を取っているだろう。明日また来るかもしれない。来ないかもしれない。
どちらでも、今日のソフィアには対処できる気がした。
花の香りが、指先に残った。カモミールの、穏やかな甘い香り。ソフィアはそれを少し吸い込んで、また手を動かした。
今日は、いい朝だったと思った。
泣かなかった。怒らなかった。ただ、本当のことを言った。それだけで、今日は十分だった。




