第二十六話 離縁状の重さ【セイル視点】
第二十六話 離縁状の重さ【セイル視点】
「上がっていただけますか」
ソフィアが言った。命令でも、懇願でもない声だった。ただ、事実として扉を開けるような言い方だった。
セイルは頷いて、中に入った。
家の中は小さかった。玄関を入るとすぐに居間があって、木の食卓と椅子が並んでいる。窓から朝の光が差し込んで、部屋を明るく照らしていた。質素だが、温かい部屋だった。王都の屋敷のどの部屋とも違う温かさが、そこにはあった。
エミリアの姿は見えなかった。気を利かせたのだろう。マリアも、居間には来なかった。
ソフィアは食卓の椅子を一つ引いて、セイルに示した。自分は向かいに座った。その所作は、王都の屋敷にいた頃と変わらない。だが、纏っている空気が違った。屋敷では常にどこか張り詰めていたものが、今のソフィアにはなかった。
セイルは椅子に座った。
沈黙が落ちた。
先に口を開くべきは自分だと分かっていた。ここに来たのは自分だ。扉を叩いたのも自分だ。言うべきことがあるのも、自分の方だ。
だが、言葉が出なかった。
ソフィアの顔を、まともに見ることができなかった。目を向けるたびに、あの離縁状の朝のことが蘇る。名前を叫んで、届かなかった朝のことが。
「……来るとは思っていました」
ソフィアが先に言った。
「そうか」
「エミリアから聞いていましたから。王都を出たと」
セイルは頷いた。探らせたことは知っているだろう。それについて今さら言い訳はしない。
「なぜ来たか、分かりますか」
ソフィアが問うた。責めるような声ではなかった。ただ、真っ直ぐな問いだった。
「……分かっているつもりだ。だが、あなたに聞かれると、正しく答えられるか分からない」
珍しく正直な言葉が出た、とセイル自身が思った。こういう言い方を、自分はほとんどしたことがない。
ソフィアは少し黙った。それから、静かに続けた。
「引き戻しに来たのであれば、お断りします」
「……そのつもりではない」
「では」
「謝りに来た」
言葉は短かった。だが、セイルにはそれ以上の言い方が分からなかった。謝罪という言葉が、これほど軽く聞こえるとは思っていなかった。言った瞬間に、その言葉の足りなさを感じた。
ソフィアは何も言わなかった。
セイルは続けた。
「五年間、あなたに向き合わなかった。距離を作ったのは俺だった。レイナに流れたのも、言い訳のできないことだ。あなたが離縁を選んだのは、当然だった」
言葉を並べながら、全部足りないと思っていた。五年間のことが、こんな短い言葉に収まるはずがない。だが、他に言い方が分からなかった。
「……知っていました」
ソフィアが言った。
「何を」
「全部、ではないけれど。距離があることも、レイナ様のことも。気づいていて、飲み込んでいました」
その言葉の重さを、セイルはゆっくりと受け取った。気づいていた。飲み込んでいた。五年間。
——どれほどの重さだったか。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
ソフィアが、少し前に体を傾けた。青い瞳が、真っ直ぐにセイルを見た。
「どうぞ」
「私の名前を、なぜ呼ばなかったのですか」
静かな問いだった。
だがその問いが、セイルの胸の中で、他のどんな言葉より深く刺さった。
五年間、ソフィアと呼ばなかった。気づいていなかった、とは言えない。どこかで、意識していた。名前を呼ぶことが、踏み込むことに思えた。踏み込むことを、避けていた。
「……怖かった」
その言葉が出たとき、セイル自身が驚いた。昨夜考えた言葉ではなかった。だが、これが本当のことだった。
「怖かった?」
「あなたが、読めなかった。近づいたら、何かが始まる気がした。始まったものに、応えられるか分からなかった。だから……距離を取った。名前を呼ばないことで、扉を閉めたままにしていた」
言いながら、みっともないと思った。有能な侯爵と呼ばれた男が、妻の名前を呼ぶことを怖れていた。そんなことが、言い訳になるはずもない。
ソフィアはしばらく黙っていた。
窓の外で、鳥が鳴いた。朝の風が、薄いカーテンを揺らした。
「……そうでしたか」
ソフィアはそれだけ言った。責めなかった。怒りもしなかった。ただ、その青い瞳の奥で、何かが静かに動いたのが分かった。
「私も、怖かったです」
意外な言葉だった。セイルは顔を上げた。
「嫁いで、あなたが扉を閉めているのが分かった。それでも、こじ開ける勇気がなかった。こじ開けて、拒まれることが怖かった。だから、完璧な侯爵夫人を演じることにした。演じていれば、傷つかないと思っていたから」
二人して、怖かった。
その事実が、静かに食卓の上に置かれた。
セイルは、離縁状のことを思った。あの書類の重さを。ソフィアが署名するまでに、どれほどの時間がかかったか。どれほどの重さを抱えて、あの一行を書いたか。
「……取り消せとは言わない」
セイルは言った。
「離縁状のことか」
「はい」
「それは、あなたが決めたことだ。俺にそれを覆す権利はない」
ソフィアは少し目を伏せた。それから、また顔を上げた。
「では、何を求めて来たのですか」
真っ直ぐな問いだった。
セイルは、少しの間黙った。
「……もう一度だけ、話をさせてほしい。今日だけでなくていい。あなたが許す限り、何度でも。俺が何を間違えたか、あなたに伝えたい。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ。答えを急がない。結論も求めない。ただ、言わずに終わりたくなかった」
ソフィアはしばらく、セイルを見ていた。
その目の中に、さまざまなものが混じっていた。疑いと、疲れと、それから——ほんの少しだけ、別の何かが。
「……一つだけ、条件があります」
「聞かせてくれ」
「嘘をつかないこと。言葉を飾らないこと。あなたが今日言ったような言葉だけで、話してください」
セイルは、少し息を吐いた。
「……それなら、できる」
ソフィアは頷いた。小さく、でも確かに。
窓の外の光が、少し強くなっていた。朝が深まっていく。鳥の声が、また聞こえた。
二人の間の沈黙は、最初のものとは少し違っていた。重くはあったが、閉じてはいなかった。
扉が、ほんの少しだけ、開き始めていた。




