第二十五話 もう限界だった【セイル視点】
第二十五話 もう限界だった【セイル視点】
夜が明けた。
眠れたのか眠れなかったのか、自分でも分からないまま、セイルは目を開けた。天井が白い。王都の屋敷の天井より低い。ここが宿だということを、一瞬遅れて思い出した。
窓から光が入っていた。薄い、まだ柔らかい朝の光だった。
セイルは寝台から起き上がって、顔を洗った。鏡を見た。目の下に疲れが出ていた。王都を出てから三日、ろくに眠っていない。だが、そういうことが気になる余裕は今の自分にはなかった。
身支度を整えながら、昨夜考えたことを頭の中で確かめた。言うべきことは決まっている。言葉の順番も、おおよそは。だが、実際にソフィアの前に立ったとき、その言葉が出るかどうかは分からなかった。
出さなければならない。それだけだ。
宿を出たのは、朝の鐘が鳴って少し経った頃だった。
町はすでに動き始めていた。パン屋が店を開け、荷馬車が通りを行く。子どもが二人、石畳の上を走っていく。王都とは違う、ゆっくりとした朝の速度だった。
薬草店の前に立った。
昨夜と同じ場所だが、今は昼の顔をしている。看板が朝の光を受けて、木の色が温かく見えた。店の扉は、まだ閉まっていた。隣の家の方に、煙が上がっている。朝食の支度をしている煙だろう。
セイルは隣の家の扉を見た。
叩く前に、一度深く息を吸った。
拳を上げた。そして、叩いた。
三回。静かに、しかし確かに。
しばらく間があった。中で人が動く気配がした。足音が近づいてくる。扉の前で止まる。
開いた。
出てきたのは、マリアだった。
五年間、ソフィアのそばにいた侍女。セイルの顔を見て、マリアの表情がわずかに変わった。驚きと、それから何か別のものが混じった顔だった。警戒、ではない。値踏みでもない。ただ、静かに測るような目だった。
「……旦那様」
マリアは、旧来の呼び方でそう言った。
「ソフィアに会いたい」
セイルは短く言った。余分な言葉は要らないと思った。マリアには、全て分かっている。
マリアはしばらく動かなかった。扉を少し開けたまま、セイルを見ていた。その目が、静かに何かを問うていた。何しに来たのか、ではない。それは分かっている。どういうつもりで来たのか、という問いだった。
「……少々お待ちください」
マリアはそれだけ言って、扉を閉めた。
完全には閉めなかった。細く、隙間を残した。それがマリアの答えだと、セイルには分かった。追い返すつもりはない。ただ、ソフィアに確かめる。それだけの隙間だった。
セイルは扉の前で待った。
中から声がした。マリアの声と、それから——もう一つ。低く、短い声。何を言っているかは聞こえなかった。だが、その声だけで、胸の中で何かが動いた。
——来た、と思った。
何が来たのか、自分でも説明できない感覚だった。ただ、逃げ出したいという気持ちと、このまま立っていなければという気持ちが、同時に胸の中にあった。
足音がした。
マリアのものより、少し軽い足音。近づいてくる。扉の前で、止まる。
開いた。
ソフィアだった。
白銀の髪を緩く束ねて、質素な朝の装いをしていた。王都の屋敷で見ていた、整った侯爵夫人の姿ではなかった。それでも——いや、だからこそ、セイルは息が止まりそうになった。
ソフィアは、セイルを見た。
驚いた顔はしなかった。来ることは、知っていたのかもしれない。あるいは、予期していたのかもしれない。ただ、その青い瞳が、静かにセイルを映していた。
五年間、あの屋敷で何百回も見た顔だった。なのに今、こんなにも遠く感じる。
「……セイル様」
ソフィアが言った。敬称をつけた呼び方だった。離縁した相手への呼び方として、それは正しかった。だが、その正しさが、今のセイルには重かった。
セイルは口を開いた。
準備していた言葉が、どこかに消えた。順番を決めていたはずの言葉が、全部霧散した。残ったのは、一つだけだった。
「……来るのが、遅すぎた」
自分でも意外な言葉だった。謝罪でも、説明でも、弁解でもない。ただの、事実だった。
ソフィアは何も言わなかった。
ただ、その青い瞳が、わずかに揺れた。




