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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第二十四話 セイルの独白【セイル視点】

第二十四話 セイルの独白【セイル視点】


 宿の部屋は狭かった。


 寝台と小さな卓と、椅子が一脚。王都の屋敷とは比べようもない。だがセイルには、そういうことがどうでもよかった。広い部屋で一人でいることと、狭い部屋で一人でいることに、今の自分には差がない。


 蝋燭を一本灯して、椅子に座った。眠れないことは分かっていた。眠ろうとも思っていなかった。今夜は、考えなければならないことがある。明日ソフィアの前に立つ前に、自分の中で決着をつけておかなければならないことが。


 嫁いできた最初の夜のことを、もう一度、正面から思い出した。



 あれは政略だった。アーデル伯爵家との関係を強化するための婚姻。セイル自身、それ以上でも以下でもないと思っていた。ソフィアも同じだろうと、勝手に決めていた。


 だが、それだけではなかった。


 本当のことを言えば——セイルはあの夜、ソフィアを怖いと思った。


 怖い、というのは正確ではないかもしれない。だが、他に言葉が見つからない。白銀の髪を整えて、静かに座っているソフィアを見たとき、セイルの中で何かが固まった。近づいてはいけない、という感覚に近いものが。


 理由は一つだった。


 ソフィアが、美しすぎた。


 容姿の話ではない。立ち居振る舞いの、完璧さのことだ。隙がなかった。感情が見えなかった。何を考えているのか、何を望んでいるのか、全く読めなかった。セイルは人を読むことに長けていた。国王陛下の信頼を得たのも、その力があったからだ。なのに、ソフィアだけが読めなかった。


 読めない相手に、踏み込むことができなかった。


——それが、全ての始まりだった。


 踏み込まなかったから、ソフィアは扉を閉じた。いや、違う。ソフィアが扉を閉じたのではない。自分が閉じたのだ。踏み込まないことで、距離を作ったのは自分だった。


 一年が過ぎ、二年が過ぎた。距離は縮まるどころか、形になっていった。夫婦の間にある静けさが、やがて当たり前の風景になった。ソフィアも何も言わなかった。完璧な侯爵夫人を演じ続けた。セイルも何も言わなかった。有能な侯爵を演じ続けた。


 二人して、別々の仮面をかぶったまま、五年間が過ぎた。



 レイナのことを、正直に考えた。


 レイナは読めた。感情が表に出た。何を考えているか分かった。それが、心地よかった。読める相手といることは、楽だった。踏み込まなくても、向こうから来てくれた。


 だが今なら分かる。


 レイナが読みやすかったのは、レイナが読ませようとしていたからだ。計算の上で、感情を見せていた。セイルはそれに気づかなかった。いや——うすうす気づいていたのかもしれない。それでも、楽な方へ流れた。


 ソフィアが読めなかったのは、ソフィアが本物だったからだ。


 本物の感情は、整っていない。本物の人間は、完全には読めない。セイルはそれを、近づけない理由にした。本当は、それが人と向き合うということだったのに。


——俺は、楽な方へ逃げた。


 その言葉が、胸の中で静かに落ちた。


 言い訳はいくらでも作れる。政略結婚だった。互いに感情を見せなかった。レイナが現れた。だが全部、言い訳だ。選んだのは自分だ。逃げたのも自分だ。


 薔薇庭園のことを、思い出した。


 ソフィアが嫁いで最初の春に、北側の空白に薔薇を植えた。セイルはそれを、離れたところから見ていた。何も言わなかった。声をかけようとして、やめた。


 なぜやめたのか。


 怖かったからだ。声をかけたら、何かが始まる気がした。何かが始まったら、自分は責任を持たなければならない。その責任から、逃げたかった。


——あの薔薇庭園は、今どうなっている。


 ソフィアがいなくなってから、誰も手入れをしていない。この季節、霜にやられた枝があるかもしれない。芽吹きかけたものが、枯れているかもしれない。


 それはソフィアとの五年間に似ていると、セイルは思った。手を入れなかった。声をかけなかった。そうして、枯れかけるまで気づかなかった。


 蝋燭が、小さく揺れた。


 セイルは椅子から立ち上がって、窓を少し開けた。夜風が入ってきた。星はまだ出ていた。


 明日、扉を叩く。


 謝罪の言葉は準備できている。だがそれだけでは足りないことも、分かっている。言葉で五年間が消えるとは思っていない。ソフィアが許すとも思っていない。


 それでも、言わなければならない。


 自分が何を間違えたか。なぜ距離を作ったか。レイナに流れたのはなぜか。そして——ソフィアを失って初めて、何を失ったと気づいたか。


 全部、自分の言葉で。


 言葉を作るのは得意ではない。国王陛下への報告書は書ける。外交の場での受け答えもできる。だが、こういう言葉は——自分の内側を開いて、そのまま差し出すような言葉は、生まれてこのかたほとんど使ったことがなかった。


——ソフィアは、ずっとそれを待っていたのかもしれない。


 その考えが浮かんだとき、胸が痛んだ。


 五年間待って、ついに待つことをやめた。それがあの離縁状だった。


 セイルは窓を閉めて、寝台に横になった。眠れるとは思っていなかった。それでも、目を閉じた。


 明日が来る。


 それだけが、今のセイルにある全てだった。



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