第二十三話 扉越しの声【セイル視点】
第二十三話 扉越しの声【セイル視点】
王都を出て三日目の夜、セイルは目的の町に着いた。
馬を走らせたのは自分と従者一人だけだった。侯爵が供も連れずに領外に出ることは異例だったが、構わなかった。今回の旅に、体裁を整える意味はない。
町は小さかった。石畳の通りが一本、その両側に商店と民家が並んでいる。夜の帳が下りて、ほとんどの家の窓に灯りはなかった。従者に宿を取るよう告げて、セイルは一人で通りに立った。
薬草店は、すぐに分かった。調べてあった場所と一致する。木の看板に薬草の絵が描かれた、小さな店構えだ。今は当然、閉まっている。
隣の家に灯りがあった。
セイルはその前に立って、しばらく動けなかった。
——ここに、いる。
扉一枚の向こうに、ソフィアがいる。その事実が、足を縫い付けた。王都を出るときは動けた。馬を走らせている間も動けた。なのに、最後の数歩が、動かない。
今夜は遅い。訪ねるべき時刻ではない。それは分かっていた。それでも、この場所を確かめずにはいられなかった。
扉を見つめていると、不意に中から声がした。
笑い声だった。
女の声が二つ。一つは明るく弾んでいる。もう一つは、低く、でも確かに笑っている。
——ソフィア。
二つ目の声が、ソフィアだと分かった。五年間、あの屋敷で聞いてきた声だ。でも、違った。屋敷で聞いていた声とは、何かが違った。
屋敷でのソフィアの声は、いつも整っていた。感情の起伏が少なく、静かで、どこか遠かった。今聞こえてくる声は、もっと——柔らかかった。力が抜けていた。本来の声に近いものが、そこにあった。
セイルは動けないまま、その声を聞いていた。
笑い声はしばらく続いて、それからゆっくりと静まった。話し声が続く。内容までは聞こえない。ただ、穏やかな時間が流れていることだけは、扉越しに伝わってきた。
——俺がいなくても、笑えている。
当然だと思った。当然だとは思った。だが、胸の中で何かが軋んだ。痛みとは少し違う。もっと鈍い、重い何かだった。
あの屋敷でソフィアがこんな声で笑うのを、自分は一度でも聞いたことがあったか。
記憶を探った。出てこなかった。
食卓での微笑み。来客への対応。社交の場での受け答え。どれも完璧だった。どれも、今扉の向こうから聞こえてくるものとは違った。
——俺が、あの声を消していたのか。
その問いが浮かんだとき、セイルは思わず目を閉じた。
答えは出さなくていい。今夜は出さなくていい。だが、問いだけは、ちゃんと持っていなければならないと思った。目を背けてきたものを、もうこれ以上背けないために。
灯りが、少し揺れた。風が通ったのかもしれない。
セイルは扉の前から、一歩引いた。今夜訪ねるつもりはない。ソフィアがこの町にいることを確かめた。それで十分だった。明日、改めて来る。朝の、きちんとした時刻に。
踵を返しかけて、もう一度だけ振り返った。
扉の向こうに、灯りがある。笑い声はもう聞こえない。静かな話し声だけが、低く続いている。
五年間、自分はあの灯りの外にいた。外にいることに、気づいてもいなかった。
——明日。
心の中で、短く言った。言い訳も、言葉の準備もまだできていない。できているとも思っていない。それでも、明日は扉を叩く。
叩く資格があるかどうかは、ソフィアが決めることだ。
セイルは夜道を宿へ向かって歩き始めた。石畳の音が、静かな町に響いた。空には星が出ていた。王都より、ずっと多く見える星だった。
見上げながら、ふと思った。
——ソフィアは、この星を毎晩見ているのか。
それだけのことが、なぜか胸に刺さった。
自分が王都の書斎で書類に向かっている間、ソフィアはこの町でこの星を見ていた。笑い声を上げていた。本来の声を、取り戻していた。
その時間の重さを、セイルは今夜初めて、少しだけ理解した。




