第二十二話 崩れた夜【セイル視点】
第二十二話 崩れた夜【セイル視点】
離縁状に署名したのは、ソフィアだった。
だがセイルは、あの朝からずっと、自分が何かに署名したような感覚を拭えずにいた。取り返しのつかない書類に。もう戻れない——いや、違う。戻れないのではない。戻る資格がない、という感覚だ。
書斎の椅子に座ったまま、セイルは窓の外を見ていた。夜だった。何時かは分からない。蝋燭が一本、燃え尽きかけている。新しいものに替えるために立ち上がる気力が、なかった。
机の上に、書類が積まれている。仕事だ。国王陛下から預かっている案件が三つ、返答を待たせている。だが今夜は、一行も読めていない。文字が、目の上を滑るだけだった。
——ソフィア。
名前を、声に出さずに呼んだ。
何度目だろう。あの朝から、毎日、何十回もそうしている。声に出せたのは一度だけだった。離縁状を手に取った朝、馬車が屋敷の門を出ていくのを窓から見て、気づいたら廊下に出て、名前を叫んでいた。
届かなかった。当然だ。馬車はもう遠かった。
その後のことは、あまり覚えていない。気づいたら書斎にいた。誰かが茶を持ってきた。飲んだかどうか分からない。夜になって、使用人が夕食を告げに来た。断った。翌朝も、その翌朝も、同じだった。
三日目に、ようやく国王陛下への報告書を一通書いた。書きながら、自分の字が乱れていることに気づいた。セイル・ヴァルトの字が乱れることなど、これまでなかった。
レイナのことを、考えた。
いや、正確には、レイナとの一年間を。
隣国アルヴァの公爵令嬢として王都に現れたレイナは、社交的で、聡明で、よく笑った。外交の場で何度か顔を合わせるうちに、言葉を交わすようになった。レイナはセイルの話をよく聞いた。仕事の話も、王都の情勢も、政の悩みも。
ソフィアは、聞かなかった。
——いや。
セイルは、そこで思考を止めた。
違う。ソフィアは聞かなかったのではない。自分が、話さなかった。話す気にならなかった、ではなく——話しかけることを、していなかった。
いつからそうなったのか。最初からか。最初から、ソフィアを妻として扱いながら、妻として見ていなかったのか。
考えると、胃の奥が重くなった。答えを出したくない問いというものがある。だがこの問いは、もう目を背けることができなかった。
嫁いできた最初の夜のことを、思い出した。
ソフィアは静かだった。緊張しているのは分かったが、顔には出さなかった。賢い女だと思った。伯爵家の令嬢として申し分ない立ち居振る舞いだと思った。
思った、だけだった。
その夜、セイルは自分の中に何かが閉じていることに気づいた。ソフィアに対して、扉が開かない感覚。なぜかは分からなかった。嫌いではなかった。ただ、開かなかった。
その閉じた扉のまま、五年間が過ぎた。
蝋燭が、音を立てて消えた。
書斎が暗くなった。月明かりだけが、窓から細く差し込んでいる。セイルはその暗がりの中で、動かなかった。
レイナが去ったのは、ソフィアが王都を出て十日後のことだった。
外交任務の終了という名目だったが、実際には違うと、セイルには分かっていた。レイナは何かを察したのだ。セイルがソフィアを追わないこと、追えないこと、それでいてレイナの元に戻る気もないことを。
レイナが去るとき、セイルは見送りに出なかった。使用人に任せた。薄情だとは思わなかった。ただ、もうそういう場所に自分はいないと、それだけは分かっていた。
——俺は何をしていたんだ。
暗い書斎で、セイルは初めてその問いを声に出した。誰もいない部屋に、低い声が落ちた。
答えは出なかった。出るはずもなかった。五年間の答えは、一晩で出るものではない。
だが、一つだけ分かることがあった。
このままではいけない。
書斎にいても、ソフィアは戻らない。書類を読んでも、ソフィアの声は聞こえない。蝋燭を替えなくても、夜は明ける。何も変わらない。
変えるためには、動くしかない。
それがどういう結果を招くかは、分からなかった。ソフィアが自分を拒むかもしれない。当然、拒む権利が彼女にはある。それでも、このまま屋敷の椅子で朽ちていくことは、セイルにはできなかった。
夜明けまで、まだ時間がある。
セイルは立ち上がって、暗い廊下に出た。厩舎に向かいながら、頭の中で経路を組み立て始めた。少人数がいい。目立つ必要はない。ただ、早く。
早く、行かなければ。
どこへ向かうかは、決まっていた。調べさせた結果は、すでに手元にある。王都から馬車で三日の距離。小さな町。薬草店を営む幼馴染のもとへ、ソフィアは向かったという。
廊下の窓から、夜空が見えた。星が多かった。
セイルは空を見上げて、一度だけ深く息を吸った。
——待っていてくれ。
声には出さなかった。出す権利が、今の自分にあるとは思えなかった。
ただ、歩みは止めなかった。




