第二十一話 旅立ちの朝
第二十一話 旅立ちの朝
夢を見た。
アーデル家の庭に、子どもの頃のソフィアがいた。薔薇の棘で指を傷つけて、でも泣かずに唇を噛んでいる。隣に誰かが立っていた。顔は見えなかった。ただ、その人は何も言わずに、ソフィアの隣にいた。それだけの夢だった。
目が覚めたとき、部屋には朝の光が満ちていた。
今日は、エミリアの家に来てからちょうど一ヶ月になる日だった。
朝食の席で、エミリアがそれを言い出した。
「一ヶ月だね、今日で」
「そうね」
「早かった? 遅かった?」
ソフィアは少し考えた。
「……両方」
エミリアが笑った。向かいでルカが黙々とパンを食べながら、目だけでソフィアを見て、小さく頷いた。この男は相変わらず口数が少ないが、その頷きには確かな温かさがあった。
マリアは台所で後片付けをしていた。この一ヶ月で、マリアはエミリアの家の勝手をすっかり覚えてしまった。エミリアが止めても、気づけば台所に立っている。それがマリアという人だった。
「ソフィア、少し話がある」
食後、エミリアがそう言った。ルカが席を立って外に出ていくのを待って、エミリアは食卓の向かいに座り直した。
「何?」
「昨日、また行商の人が来た」
ソフィアは、カップを置いた。
「王都の話?」
「うん。ヴァルト侯爵が……王都を出たって」
一瞬、空気が変わった気がした。ソフィアの背筋が、静かに伸びた。
「いつ」
「四日前、らしい。少人数で、目立たないように出たって話だった。行き先は分からないけど」
四日前。馬を飛ばせば、早ければ明日にでもこの町に届く距離だ。
——来る。
根拠はなかった。でも、ソフィアには分かった。セイルが向かっているのはここだと。あの人は不器用で、口下手で、自分の感情を表に出すことをしない。でも一度動き出したら、止まらない人だということも、五年間で知っていた。
「ソフィア、どうする?」
エミリアの問いは、真剣だった。逃げるか、留まるか、という問いではないと分かった。どう迎えるか、という問いだ。
ソフィアは少しの間、黙っていた。
第十七話の朝、マリアに「逃げるつもりはない」と言った。それは今も変わらない。でも、備えることと逃げないことは、別の話だ。
——私は今、何を思っている。
怖いか。怖くはない。怒っているか。怒りは、もうずっと前に飲み込んだ。では、何か。
静かに、自分の胸の中を確かめた。そこにあったのは、思ったより穏やかな何かだった。嵐の前の凪ではなく、本当に穏やかな何かだった。
「ここにいる」
ソフィアは言った。
「逃げない。会う。ただ……会う前に、自分の言葉を整理しておきたい」
「言葉?」
「セイルに言いたいことが、あるの。五年間、言えなかったことが。離縁状を渡した夜も、言えなかったことが」
エミリアは黙って聞いていた。
「王都にいる間は、言ったら壊れてしまいそうで。でも今は……言えると思う。ちゃんと、自分の言葉で」
「何を言うか、決まってる?」
「まだ全部は。でも、一番大事なことは決まっている」
エミリアがじっとソフィアを見た。それから、小さく息を吐いた。
「……強くなったね」
「そうかしら」
「そうだよ。王都にいた頃のソフィアは、こういう顔をしていなかった」
「こういう顔?」
「怖がっていないけど、構えてもいない顔」
ソフィアは少し考えてから、窓の外を見た。今日の空は高く、雲が少ない。薬草店の前に植えた小さな鉢の花が、朝の風に揺れているのが見えた。
——旅立ちの朝。
どこかへ行くわけではない。この家にいる。でも何かが、今日を境に動き始める気がした。一ヶ月かけてここで取り戻したものを、今度は手放さずに持って立つ、そういう朝の気がした。
「マリア」
ソフィアは台所に向かって呼んだ。マリアがすぐに顔を出した。
「はい」
「セイルが王都を出たそうよ」
マリアの表情は動かなかった。ただ、目の奥が少し変わった。
「……そうでしたか」
「準備というほどのものは要らないけれど、心の準備だけ、しておいて」
「はい。ソフィア様こそ」
ソフィアは頷いた。
それから三人は、しばらく黙って、それぞれの朝の時間を過ごした。エミリアは食器を片付け、マリアは台所に戻り、ソフィアは窓の外の空を見ていた。
騒がしくはなかった。でも、確かに何かが始まる朝だった。
薬草店の鉢の花が、また風に揺れた。小さく、でも確かに。




