表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/28

第二十一話 旅立ちの朝

第二十一話 旅立ちの朝


 夢を見た。


 アーデル家の庭に、子どもの頃のソフィアがいた。薔薇の棘で指を傷つけて、でも泣かずに唇を噛んでいる。隣に誰かが立っていた。顔は見えなかった。ただ、その人は何も言わずに、ソフィアの隣にいた。それだけの夢だった。


 目が覚めたとき、部屋には朝の光が満ちていた。


 今日は、エミリアの家に来てからちょうど一ヶ月になる日だった。



 朝食の席で、エミリアがそれを言い出した。


「一ヶ月だね、今日で」


「そうね」


「早かった? 遅かった?」


 ソフィアは少し考えた。


「……両方」


 エミリアが笑った。向かいでルカが黙々とパンを食べながら、目だけでソフィアを見て、小さく頷いた。この男は相変わらず口数が少ないが、その頷きには確かな温かさがあった。


 マリアは台所で後片付けをしていた。この一ヶ月で、マリアはエミリアの家の勝手をすっかり覚えてしまった。エミリアが止めても、気づけば台所に立っている。それがマリアという人だった。


「ソフィア、少し話がある」


 食後、エミリアがそう言った。ルカが席を立って外に出ていくのを待って、エミリアは食卓の向かいに座り直した。


「何?」


「昨日、また行商の人が来た」


 ソフィアは、カップを置いた。


「王都の話?」


「うん。ヴァルト侯爵が……王都を出たって」


 一瞬、空気が変わった気がした。ソフィアの背筋が、静かに伸びた。


「いつ」


「四日前、らしい。少人数で、目立たないように出たって話だった。行き先は分からないけど」


 四日前。馬を飛ばせば、早ければ明日にでもこの町に届く距離だ。


——来る。


 根拠はなかった。でも、ソフィアには分かった。セイルが向かっているのはここだと。あの人は不器用で、口下手で、自分の感情を表に出すことをしない。でも一度動き出したら、止まらない人だということも、五年間で知っていた。


「ソフィア、どうする?」


 エミリアの問いは、真剣だった。逃げるか、留まるか、という問いではないと分かった。どう迎えるか、という問いだ。


 ソフィアは少しの間、黙っていた。


 第十七話の朝、マリアに「逃げるつもりはない」と言った。それは今も変わらない。でも、備えることと逃げないことは、別の話だ。


——私は今、何を思っている。


 怖いか。怖くはない。怒っているか。怒りは、もうずっと前に飲み込んだ。では、何か。


 静かに、自分の胸の中を確かめた。そこにあったのは、思ったより穏やかな何かだった。嵐の前の凪ではなく、本当に穏やかな何かだった。


「ここにいる」


 ソフィアは言った。


「逃げない。会う。ただ……会う前に、自分の言葉を整理しておきたい」


「言葉?」


「セイルに言いたいことが、あるの。五年間、言えなかったことが。離縁状を渡した夜も、言えなかったことが」


 エミリアは黙って聞いていた。


「王都にいる間は、言ったら壊れてしまいそうで。でも今は……言えると思う。ちゃんと、自分の言葉で」


「何を言うか、決まってる?」


「まだ全部は。でも、一番大事なことは決まっている」


 エミリアがじっとソフィアを見た。それから、小さく息を吐いた。


「……強くなったね」


「そうかしら」


「そうだよ。王都にいた頃のソフィアは、こういう顔をしていなかった」


「こういう顔?」


「怖がっていないけど、構えてもいない顔」


 ソフィアは少し考えてから、窓の外を見た。今日の空は高く、雲が少ない。薬草店の前に植えた小さな鉢の花が、朝の風に揺れているのが見えた。


——旅立ちの朝。


 どこかへ行くわけではない。この家にいる。でも何かが、今日を境に動き始める気がした。一ヶ月かけてここで取り戻したものを、今度は手放さずに持って立つ、そういう朝の気がした。


「マリア」


 ソフィアは台所に向かって呼んだ。マリアがすぐに顔を出した。


「はい」


「セイルが王都を出たそうよ」


 マリアの表情は動かなかった。ただ、目の奥が少し変わった。


「……そうでしたか」


「準備というほどのものは要らないけれど、心の準備だけ、しておいて」


「はい。ソフィア様こそ」


 ソフィアは頷いた。


 それから三人は、しばらく黙って、それぞれの朝の時間を過ごした。エミリアは食器を片付け、マリアは台所に戻り、ソフィアは窓の外の空を見ていた。


 騒がしくはなかった。でも、確かに何かが始まる朝だった。


 薬草店の鉢の花が、また風に揺れた。小さく、でも確かに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ