第二十話 泣かないと誓った夜
第二十話 泣かないと誓った夜
夜が深くなると、この町は静かになる。
王都の夜とは違う静けさだった。王都には夜になっても馬車の音があり、遠くの酒場から笑い声が聞こえ、衛兵の足音が石畳を打った。ここにはそういうものが何もない。風の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが、暗闇の中に溶けている。
ソフィアは寝台の上で、毛布を膝にかけたまま起きていた。眠れないわけではなかった。ただ、今夜は目を閉じる前に、少しだけ一人でいたかった。
窓から月が見えた。丸くはないが、十分に明るい月だった。その光が床に四角く落ちて、部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。
今日、薬草店でエミリアと話しながら、ふと思い出したことがあった。
五年前の夜のことだ。
嫁いで最初の冬。ヴァルト侯爵家に来て、まだ三ヶ月も経っていない頃だった。
その夜、セイルは夕食の席に現れなかった。理由の説明はなかった。使用人が「旦那様は今夜は書斎で」とだけ告げて、ソフィアは一人で食卓についた。広い食堂に、一人分の食器だけが並んでいた。
寂しいとは思わなかった。そう思わないようにした、という方が正確かもしれない。政略結婚とはそういうものだ。夫婦が毎晩同じ食卓につくとは限らない。自分には屋敷の管理という務めがある。それを果たすことが、侯爵夫人としての自分の役割だ。
そう言い聞かせて、一人で食事を終えた。
部屋に戻って、扉を閉めて、寝台の端に腰かけたとき、初めて涙が出た。
声は出さなかった。泣いていることをマリアに知られたくなかったから。ただ、目から水が落ちた。それが頬を伝って、顎の先から膝の上に落ちた。
ソフィアはその涙を手の甲で拭って、もう一度だけ泣いて、それから心の中で静かに誓った。
——もう泣かない。泣いても、何も変わらないから。
その夜から五年間、ソフィアは泣かなかった。正確には、泣かないようにした。感情が込み上げてくるたびに、喉の奥で押しとどめた。微笑みを顔に貼り付けて、完璧な侯爵夫人を演じ続けた。
泣かないことが、自分を守る唯一の方法だと思っていた。
この町に来てから、その誓いが少しずつ溶けていく気がした。
先日、夜中に一度泣いた。エミリアにそう話したとき、自分でも驚いた。泣けたことに、ではない。泣いたことを、誰かに話せたことに。
王都では、泣いたことを誰かに言うなどあり得なかった。マリアにでさえ、気づかれないようにしていた。泣くことは弱さで、弱さを見せることは隙で、隙は侯爵夫人には許されないと、そう思っていた。
——でも、本当にそうだったのだろうか。
月の光が、少し傾いた。時間が経っているらしかった。
ソフィアは膝の上の毛布を、少し引き上げた。夜はまだ冷える。早春の夜気が、窓の隙間からそっと入ってくる。
五年前の自分に、何か言えるとしたら何を言うだろう。泣いてもいい、と言うだろうか。でも、あの頃の自分はそれを聞かなかっただろう。泣かないことで立っていた。泣かないという誓いが、あの頃の自分の背骨だった。
だとしたら、あの誓いは間違いではなかったのかもしれない。あの誓いがあったから、五年間倒れずにいられた。あの誓いがあったから、静かに、でも確かに、離縁を選ぶ力を蓄えることができた。
——泣かなかったことは、弱さを隠すためじゃなかった。
立っているためだった。
そう気づいたとき、不思議と、あの五年間が少しだけ違う色に見えた。惨めだと思っていた時間が、全部無駄だったとは言えない気がした。
それでも、と思う。
もうその誓いは要らない。ここには、泣かないことで守らなければならない自分の立場がない。ここには、隙を見せてはいけない相手がいない。エミリアがいて、マリアがいて、老人が薔薇に水をやっている広場がある。
泣いてもいい場所に、今、自分はいる。
ソフィアは窓の月を見ながら、静かに目を閉じた。涙は出なかった。出なくてよかった。今夜は泣く夜ではない気がした。ただ、泣かないと誓った夜のことを、ちゃんと覚えていたかった。
あの夜の自分を、責めるためではなく。
ただ、抱きしめるために。
風が窓を静かに揺らした。ソフィアは毛布を肩まで引き上げて、ゆっくりと横になった。
今夜は、よく眠れそうだった。




