第十九話 枯れかけた薔薇庭園
第十九話 枯れかけた薔薇庭園
翌朝から、ソフィアは薬草店に通い始めた。
といっても大げさなものではない。朝食を終えてエミリアの家を出て、隣の店舗に入るだけだ。距離にして十歩もない。それでもソフィアにとって、その十歩は不思議と、毎朝少しずつ意味を変えていくような気がした。
今日はエミリアに薬草の仕分けを教わりながら、午前中をそこで過ごした。カモミール、ペパーミント、セージ。葉の形と香りで見分けるコツを、エミリアは丁寧に、でも淡々と教えた。侯爵夫人に教えているという意識が、この幼馴染には最初からないらしかった。それがソフィアには、ひどく心地よかった。
昼前に客が途絶えたところで、ソフィアは少し外に出た。
町の東側に、小さな広場がある。石畳の真ん中に古い水飲み場があって、その周りに季節の花が植えられている。今の時期は、まだ早春の名残りで、花の数は少ない。それでも、日当たりの良い一角に、小さな薔薇の株がいくつか芽吹いていた。
ソフィアはその前に立って、しばらく動かなかった。
——薔薇。
嫁いだ最初の春のことを、思い出した。
ヴァルト侯爵家の庭は広かった。整然とした庭木と、手入れの行き届いた花壇。でも北側の一角だけ、妙に殺風景な場所があった。土はあるのに、何も植えられていない。まるで誰かが何かを植えようとして、やめてしまったような空白だった。
ソフィアは庭師に許可を取って、そこに薔薇を植えた。
理由は単純だった。アーデル家の庭に薔薇があって、子どもの頃から好きだったから。それだけだった。夫に贈るつもりも、何かを示すつもりもなかった。ただ、あの空白を埋めたかった。自分が毎日目にする場所に、好きな花があってほしかった。
薔薇は育った。赤と白と、淡い桃色の三種類。夏になると庭の一角が色づいて、ソフィアは朝の水やりをひとつの楽しみにした。マリアがそっと手伝ってくれていたことにも、後から気づいた。
セイルがその庭を眺めているのを、一度だけ見かけたことがある。何を思っていたのかは分からない。ソフィアが声をかける前に、彼は踵を返して屋敷の中に戻ってしまった。
——今、あの庭はどうなっているだろう。
誰も水をやっていなければ、この季節はまだ土が固い。芽吹きかけた枝が、霜にやられているかもしれない。
不思議と、心配だった。自分がいなくなったことより、薔薇の心配をしている自分が少し可笑しくて、ソフィアは小さく息を吐いた。
「薔薇、好きなんですか」
不意に声がして、ソフィアは顔を上げた。
水飲み場の脇に、老いた男が立っていた。七十近いだろうか、背は低いが目が穏やかだった。手に水差しを持っている。この広場の花の世話をしている人らしかった。
「ええ、少し」
「この株はまだ若いんですよ。去年植えたばかりで」
老人はゆっくりと株の根元に水をやりながら、続けた。
「薔薇はね、手をかけた分だけ答えてくれる。でも枯れかけても、根さえ生きていれば戻ってくる。しぶといんです、これが」
「……そうなんですね」
「よそから来た方ですか」
「はい。少しの間、お世話になっています」
老人はソフィアを見て、目を細めた。値踏みするのでも、詮索するのでもない、ただ穏やかな目だった。
「ゆっくりしていってください。この町は、急かすものが何もないから」
それだけ言って、老人は水差しを持ったまま、のんびりと広場の奥へ歩いていった。
ソフィアはもう一度、薔薇の株を見た。芽はまだ小さい。葉もまだ柔らかい。でも確かに、土から上へ向かって伸びていた。
——根さえ生きていれば、戻ってくる。
老人の言葉が、静かに胸に落ちた。
薔薇の話をしているのか、それとも別の何かの話をしているのか、ソフィア自身にもよく分からなかった。ただ、その言葉を、もう少しだけ胸の中に置いておきたいと思った。
風が吹いた。早春の、まだ少し冷たい風。薔薇の小さな芽が、かすかに揺れた。
ソフィアは踵を返して、薬草店へ戻った。エミリアが午後の仕分けを待っている。手を動かす時間が、今の自分には必要だった。
歩きながら、ふと思った。
——王都の薔薇庭園も、しぶとく芽吹いているといい。
誰も水をやっていなくても。誰も気にかけていなくても。
根さえ生きていれば、きっと。




