第十八話 贈られなかった花束
第十八話 贈られなかった花束
エミリアの薬草店は、昼過ぎになると客足が途絶える。
午前中に近隣の主婦たちが買い物を済ませ、午後の早い時間は店内がひっそりと静まり返る。その時間帯に、エミリアはよく奥の作業台で薬草を仕分けながら、ソフィアと他愛のない話をした。
今日もそうだった。ただし、話題は他愛のないものではなかった。
「花束、ねえ」
エミリアは手を動かしながら、少し遠い目をした。乾燥させたラベンダーの束を棚に並べながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「セイル様って、一度も?」
「一度も」
ソフィアは作業台の端に腰かけて、窓の外を見ていた。表通りを猫が一匹、のんびりと横切っていく。
「誕生日も?」
「ええ」
「結婚記念日も?」
「ええ」
エミリアは手を止めた。ソフィアの方を見て、それから何かを言いかけて、やめた。その代わりに、小さく息を吐いた。
「……ひどいね」
「ひどいとは思っていなかったの、当時は」
ソフィアは静かに言った。嘘ではなかった。あの頃は、そういうものだと思っていた。政略結婚とはそういうものだと。侯爵夫人とはそういう立場だと。花束を贈られる妻というのは、恋愛結婚をした女のことで、自分には最初から関係のない話だと。
「でも、レイナ様には?」
エミリアの問いは、静かだったけれど、真っ直ぐだった。
ソフィアは少しだけ間を置いてから、答えた。
「……薔薇を。白い薔薇を、舞踏会の翌朝に」
「見たの?」
「見た。庭師に頼んでいるところを、たまたま。セイルは気づいていなかったと思う。私が廊下の窓から見ていることに」
あの朝のことは、よく覚えている。夜が明けたばかりの庭に、セイルが一人で立っていた。庭師に何かを告げて、庭師が薔薇を切り始めた。白い、まだ露を帯びた薔薇を。
ソフィアはそれを窓越しに見て、何も思わないようにした。感情を胃の底に押し込んで、微笑みだけを顔に張り付けた。その朝の朝食でセイルと向き合い、いつも通り「おはようございます」と言った。
——彼は、私に向けてそういう顔をしたことが、一度でもあっただろうか。
「ソフィア」
エミリアが、珍しく名前だけで呼んだ。
「怒っていい。今からでも」
「……分かってる」
「分かってるじゃなくて、怒っていいんだよ。悲しんでいい。みっともなく泣いてもいい」
ソフィアは窓の外から視線を戻して、エミリアを見た。幼馴染の顔が、少し険しくなっていた。怒っているのだ、とソフィアは思った。ソフィアの代わりに、ソフィアが飲み込んできたものに対して。
「王都にいる間は、ずっと我慢してたんでしょ」
「……そうね」
「こっちに来てからは?」
ソフィアは少し考えた。こっちに来てから、何かが変わったか。泣いたか。怒ったか。
「泣いたことは、ある。夜中に一度だけ」
「一度だけ?」
「一度で十分だったから」
エミリアが何かを言おうとした。でもソフィアは静かに続けた。
「悲しいとか、悔しいとか、そういう気持ちはちゃんとある。あるけど……今は不思議と、それより先のことを考えている自分がいるの」
「先のこと?」
「この町で何ができるか、とか。自分が好きなものは何か、とか。五年間、そういうことを考える暇がなかったから」
エミリアは少し黙った。それから、ゆっくりと口の端を上げた。
「……薬草、好き?」
「え?」
「この店の仕事、手伝う? 暇ならさ」
ソフィアは一瞬、きょとんとした。それから、小さく笑った。王都の屋敷では滅多に出なかった、作り物でない笑いだった。
「薬草の知識は少し、あるわ。嫁いだ頃に本で読んだことがあるから」
「じゃあ即戦力じゃない。明日から来て」
「働き口を探していたわけじゃないけれど」
「いいじゃない、手を動かす方が気が紛れるって。私がそうだったから」
エミリアは何でもないことのように言って、またラベンダーの束に手を伸ばした。さらりとした、でも温かい申し出だった。
ソフィアはしばらく、その横顔を見ていた。
——贈られなかった花束のことを、この人はちゃんと怒ってくれている。
不思議と、それが一番、胸に沁みた。
自分では泣けなかったものを、誰かが怒ってくれることが、こんなに温かいものだとは知らなかった。
「エミリア」
「何?」
「……ありがとう」
エミリアは振り返らなかった。ただ、手を動かしながら短く言った。
「いいから。明日、早めに来て」
午後の光が、薬草店の小さな窓から差し込んでいた。ラベンダーの香りが、ゆっくりと空気に溶けていく。
ソフィアは作業台から下りて、棚に並んだ薬草を眺めた。名前を知っているものも、知らないものもある。
——明日から、少し覚えてみよう。
そう思った瞬間、胸の中で何かが、ほんの少しだけ、軽くなった。




