第十七話 侍女の忠告
第十七話 侍女の忠告
朝の光が窓から斜めに差し込んで、エミリアの家の小さな食卓を白く照らしていた。
ソフィアは両手でカップを包むようにして持ち、温かい紅茶をゆっくりと口に運んだ。王都の屋敷で飲んでいたものより茶葉は粗い。でも、なぜかここで飲む一杯の方が、ずっと体の奥まで染み渡る気がした。
「ソフィア様」
背後から静かな声がした。振り返らなくても分かる。マリアだ。
「おはよう、マリア」
ソフィアが振り返ると、マリアは食卓の前に立ち、手を胸の前で重ねていた。いつもと変わらない、落ち着いた顔をしている。でもその目の奥に、何かを言いたくて抑えているような色があることに、ソフィアは気づいていた。
「少し、よろしいでしょうか」
「もちろん」
ソフィアが椅子を引いて向かいを示すと、マリアは一瞬躊躇してから、静かに腰を下ろした。王都の屋敷では主人と侍女が同じ食卓につくことはなかった。でもここには、そういう決まりごとを気にする人間がいない。それがソフィアには、今でも少し不思議で、少し嬉しかった。
「何?」
ソフィアが穏やかに促すと、マリアは視線を卓の木目に落としてから、ゆっくりと顔を上げた。
「昨夜、エミリア様から少し話を聞きました」
「エミリアから?」
「はい。王都から荷馬車が来たようです。行商の男が、屋敷の方の話をしていたと」
ソフィアの手が、カップの上で止まった。
「どんな話?」
「……ヴァルト侯爵が、方々に人を出しているという噂です。王都を離れた令嬢の行方を、という話だったようで」
マリアの言葉は、静かだった。責めるでも、急かすでもない。ただ事実を、ソフィアの前に丁寧に置くように。それがこの侍女のやり方だと、五年間一緒にいたソフィアには分かっていた。
——探している。
頭の中でその言葉が転がった。なぜ今さら。なぜあの人が。署名はもうした。書類は揃っている。私はもう、ヴァルト侯爵家の妻ではない。
「ソフィア様」
マリアが、少し声を低くした。
「私は、ソフィア様がここで静かに過ごせることを願っています。それは変わりません。ただ……」
「ただ?」
「備えておく方がいいかもしれない、と思いまして」
備える。その言葉の重さを、ソフィアは口の中で転がした。何に備えるのか。セイルが来ることに? あの人が馬を走らせて、この小さな町まで来ることが本当にあり得るのか。
——五年間、扉の前で立ち止まったことすらなかった人が。
「ありがとう、マリア」
ソフィアはカップを卓に置いた。陶器が木に当たる、小さな音がした。
「でも、逃げるつもりはないわ」
「……はい」
「ここに来たのは、逃げるためじゃなかったから」
マリアは何も言わなかった。ただ、その目に何かが揺れた。それが何なのかをソフィアが問う前に、マリアは静かに立ち上がり、軽く頭を下げた。
「朝食の準備をしてまいります」
一人になった食卓で、ソフィアは窓の外を見た。この町の朝は、王都より少しだけ遅い。光が山の向こうから来るせいで、陰影がやわらかく長い。白い壁に薄橙の光が滲んで、どこか水彩画のような朝だった。
——探している。
もう一度、その言葉が浮かんだ。セイルが人を出している。ソフィアを探して。でも、それは何のためだろう。詫びるためか。引き戻すためか。それとも——ただ、行き先を確認するためだけか。
どれであっても、ソフィアの答えは変わらない。変えるつもりがない。五年間かけて決めたことだから。
それでも、窓の外の光を見つめながら、ソフィアは静かに思った。
——あの人は今、どんな顔をしているのだろう。
その問いに、自分が少しだけ揺れていることに気づいて、ソフィアは小さく息を吐いた。揺れることは、まだ許される。揺れながらも、歩みを止めないことが大事なのだと、エミリアに言われた言葉を思い出した。
朝食の匂いが、台所の方から流れてくる。パンを焼く、素朴で温かい匂い。
ソフィアはもう一度、カップを手に取った。すっかり冷めた紅茶を、静かに飲み干した。




