第十六話 届いた噂
第十六話 届いた噂
この町に来て、二週間が過ぎた。
ソフィアの生活は、少しずつ根を張り始めていた。薬草店の常連客とも顔馴染みになり、花屋の老婆とは毎朝挨拶を交わすようになった。町の人々はソフィアを「エミリアの幼馴染の旅人」として受け入れてくれていた。それ以上でも、それ以下でもなく。
その距離感が、今のソフィアにはちょうどよかった。
午前中の仕分けを終えて、ソフィアは店の帳簿の整理を手伝っていた。エミリアは計算が苦手らしく、帳簿は常に少し乱雑だった。ソフィアが整理し始めると、エミリアは心底ほっとした顔をした。
「ソフィアって帳簿得意なの?」
「侯爵家の領地管理をしていたから。数字を扱うことには慣れているわ」
「すごい。私には全然できないのよね。ルカも苦手だし、毎月頭が痛くて」
「もし良ければ、定期的に整理しましょうか。それくらいなら役に立てるから」
「本当に? 助かる!」
エミリアが屈託なく喜んだ。ソフィアは小さく笑いながら、帳簿に向かった。
数字を追いながら、ソフィアはふと思った。
侯爵夫人として身につけたことが、こんな場所で役に立つとは思っていなかった。領地の管理も、帳簿の整理も、侯爵家のためにやっていたことだった。しかし今は、友人のために使っている。同じ知識なのに、こんなにも気持ちが違う。
夕方近くになって、馴染みの客が店に入ってきた。
三十代ほどの女性で、町の宿屋を営んでいるルーシーという人物だった。明るい性格で、町の噂話には誰よりも詳しい。エミリアとは気の置けない仲らしく、店に来るたびに長話をしていく。
「エミリア、聞いた? 王都からまた商人が来てたみたいよ」
「へえ、何の商人?」
「薬草や香辛料を扱う大きな商会らしいわ。この町の薬草に目をつけているって話よ」
エミリアが興味深そうに聞いていた。ソフィアは帳簿に目を落としたまま、二人の会話を耳の端で聞いていた。
「それと、王都の話なんだけどね」
ルーシーが声を少し低くした。
「ヴァルト侯爵家が、何やらざわついてるって話を聞いたわ。侯爵夫人が突然いなくなったとかで」
ソフィアの手が、わずかに止まった。
「へえ」とエミリアが相槌を打った。その声が、普段より少しだけ慎重だった。
「詳しいことはわからないんだけど、社交界でもかなり話題になってるみたいよ。侯爵夫人って、確かアーデル伯爵家の令嬢だったでしょ? なんで急に、って」
「そうなの」
「隣国の令嬢が関係してるとか、してないとか……まあ噂だからどこまで本当かわからないけどね」
ルーシーは特に深い意味もなさそうに話していた。王都から離れたこの町では、それはただの遠い噂話に過ぎなかった。しかしソフィアにとっては、自分自身の話だった。
帳簿のページをめくる手が、少しだけ震えた。
——社交界で話題になっているのか。
予想はしていた。侯爵夫人が突然いなくなれば、噂になるのは当然だ。しかし実際にこうして耳に入ると、また別の重さがあった。
ルーシーはしばらく話してから帰っていった。
店が静かになったあと、エミリアがソフィアのそばに来た。
「……聞こえてたよね」
「ええ」
「大丈夫?」
「大丈夫よ。予想していたことだから」
ソフィアは帳簿から顔を上げ、静かに続けた。
「噂になることは、覚悟していたわ。侯爵夫人が理由も告げずにいなくなれば、そうなるのは当然だもの」
「理由は告げなかったの?」
「セイル様には告げたわ。でも社交界への説明は、セイル様に任せると決めていた。私がどう伝えるかより、セイル様がどう伝えるかの方が、この場合は重要だから」
エミリアが少し考えてから、頷いた。
「それで、あなたはどうしたい? このまま噂が広がっても、ここにいる?」
「ええ。ここを出る理由はないわ。噂は噂よ。私の生活は、噂で変わるものじゃない」
言葉にしてみると、意外なほど揺らがなかった。
一ヶ月前の自分なら、社交界の噂を気にして眠れない夜を過ごしていたかもしれない。しかし今は違った。王都の噂が届かないこの町で、薬草の香りの中で過ごした二週間が、ソフィアの中で何かを変えていた。
「強くなったね、ソフィア」
エミリアが静かに言った。
「前からそうだったかもしれないけど、もっと強くなった」
「強いんじゃなくて、ただ疲れ果てたのかもしれないわ。疲れ果てると、怖いものがなくなるのかもしれない」
エミリアが少し笑った。
「それも強さよ」
ソフィアは小さく微笑んで、帳簿に目を戻した。
夕暮れが近づき、店の窓から橙色の光が差し込んだ。薬草の香りが、光の中に漂っていた。
噂は噂だ。王都で何が話されていようと、ここでの日々は変わらない。明日も朝が来て、薬草を仕分けて、エミリアと笑う。それだけで、今のソフィアには十分だった。
しかし夜、一人で部屋に戻ってから、ソフィアはしばらく窓の外を見つめた。
——セイル様は、今何をしているだろう。
思いたくないのに、ふと思ってしまった。社交界の噂の中で、一人で屋敷にいるのだろうか。それとも、レイナのそばにいるのだろうか。
どちらでも、もう関係ない。
そう思いながらも、星空を見上げるソフィアの胸の奥には、小さな痛みがまだ残っていた。




