第十五話 エミリアの問い
第十五話 エミリアの問い
この町に来て、一週間が過ぎた。
ソフィアの日課は決まってきた。朝はエミリアと一緒に朝食を作り、午前中は薬草店の仕分けを手伝い、昼過ぎに町を少し歩いて、夕方にまた店に戻る。そして夜は四人で食卓を囲む。それだけの繰り返しだった。
しかしその繰り返しが、ソフィアには心地よかった。
侯爵夫人として過ごした五年間は、毎日が「こなすべきこと」で埋まっていた。茶会の準備、来客の対応、領地の書類、社交界の行事。すべてが義務だった。しかし今の日課には義務がない。手伝いたいから手伝う。歩きたいから歩く。ただそれだけだった。
薬草の仕分けにも、少しずつ慣れてきた。
今日はエミリアに任されて、一人で午前中の仕分けをこなした。ラベンダー、セージ、カモミール、ローズマリー。一週間前は見分けもつかなかった薬草が、今は香りだけで種類がわかるようになっていた。
——案外、できるものね。
自分でも少し驚いていた。侯爵夫人として身につけたことは多かったが、こういう実用的な知識は持っていなかった。新しいことを覚える感覚が、思いのほか楽しかった。
昼過ぎに仕分けを終えて、ソフィアは店の裏の小さな庭に出た。
エミリアが薬草を育てている庭だった。整然とした侯爵邸の薔薇庭園とは違い、少し雑然としているが、生き生きとした緑が広がっていた。ソフィアはベンチに腰を下ろし、風に揺れる薬草を眺めた。
まもなくエミリアが温かいお茶を持って出てきた。
「お疲れ様。今日は一人でよくやったじゃない」
「ありがとう。思ったよりも早く終わったわ」
「筋がいいのよ、ソフィアは。もう少し教えたら、立派な薬草師になれるんじゃない」
エミリアが笑いながら隣に座った。二人でお茶を飲みながら、しばらく庭を眺めていた。
風が吹いて、ラベンダーの香りが漂った。
「ねえ、ソフィア」
エミリアが、ふと真剣な口調になった。
「聞いてもいい? 立ち入ったことだったら言って」
「何?」
「セイル様のこと、今はどう思ってる?」
ソフィアは少し間を置いてから、お茶のカップを両手で包んだ。
「……どう思っているか、かしら」
「うん。憎い? それとも、まだ好き?」
エミリアらしい、直球の問いだった。ソフィアは少し考えてから、正直に答えた。
「憎くはないわ。恨んでもいない。ただ……もう疲れてしまったの。愛しているかどうかすら、わからなくなってしまった」
「五年間で、わからなくなってしまったの?」
「最初の頃は、好きだと思っていたわ。誠実そうな人だと思っていたし、時間をかければきっと心が近づくと信じていた。でも少しずつ削られていったのかもしれない。レイナが現れてからは、それが一気に加速して」
エミリアは黙って聞いていた。
「嫌いになったわけじゃない。ただ、感情そのものが、どこかへ行ってしまった感じ。愛しているという実感も、憎んでいるという実感も、どちらもなくて……ただ、疲れただけ」
「……そっか」
エミリアが静かに言った。
「それって、すごく辛いことだと思う。憎めるなら、まだ感情があるってことだから。何も感じなくなるって、一番消耗するのよ」
ソフィアは少し驚いた。エミリアがそれほど深く理解してくれるとは思っていなかった。
「……そうね。自分でも気づいていなかったけど、そういうことかもしれない」
「で、ここに来て少し変わった?」
「変わったと思う。少しずつ、何かが戻ってきている気がする。怒ったり、笑ったり、驚いたり。そういう当たり前の感情が」
「それでいいのよ」
エミリアがにっこりと笑った。
「感情を取り戻したら、そのときに改めて考えればいい。セイル様のことも、これからのことも。今は無理に答えを出さなくていい」
「……ありがとう、エミリア」
「お礼はいらないって言ったでしょ」
エミリアが笑いながらソフィアの肩を軽く叩いた。ソフィアも小さく笑った。
しばらく二人でお茶を飲みながら、庭の薬草を眺めていた。
風が吹くたびに、ラベンダーとセージの香りが混ざり合って漂った。眠れないときや不安なときに使う薬草。五年間、そういう夜が何度あっただろうと、ソフィアはぼんやりと思った。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
今度はソフィアが聞いた。
「何?」
「エミリアとルカは、最初から仲がよかったの?」
エミリアが少し照れたように笑った。
「最初は全然よくなかったわよ。ルカって不器用でしょ? 口下手だし、気持ちを全然言葉にしないから、最初の一年はよくすれ違ってたわ」
「そうなの? 今はあんなに自然なのに」
「時間をかけて、お互いに話し合ったのよ。私も言いたいことを言うようにしたし、ルカも少しずつ言葉にする練習をした。今でも完璧じゃないけど、それでいいかなって思ってる」
ソフィアはその言葉を、静かに聞いていた。
話し合うこと。言葉にすること。そのどちらも、五年間の結婚生活でほとんどできなかったことだった。話し合おうとしたことはあった。しかし言葉にする前に、いつも飲み込んでしまった。伯爵令嬢として育てられた矜持が、みっともない姿を夫に見せることを許さなかった。セイルもまた、言葉にしなかった。二人の間には、ずっと言葉が足りなかった。
——もう、遅いけれど。
ソフィアは静かにそう思った。後悔ではなかった。ただ、そういうことだったのだと、今更ながらに整理できた気がした。
「ありがとう、エミリア。話してよかった」
「いつでも話して。私はここにいるから」
エミリアがまた、さらりと言った。その言葉の軽さが、ソフィアにはいつも心地よかった。重くなく、しかし確かにそこにある温かさ。
庭のラベンダーが、また風に揺れた。
ソフィアはお茶の最後の一口を飲んで、空になったカップをそっとテーブルに置いた。




