第4話 離れた席と、届かないノート
この物語を手に取っていただき、ありがとうございます。
『君に届くまで、何度でも』は、耳の聞こえない白澤由紀と、幼い頃から筆談を続けてきた霧島政を中心に描く、学園日常ラブコメです。
言葉は、声だけで伝えるものではありません。文字や表情、視線、そして誰かのために立ち止まる時間にも、気持ちは込められると思います。
私立桐星学園で始まる四人の高校生活と、幼なじみだった由紀と政の関係が少しずつ変わっていく様子を、温かく見守っていただけたらうれしいです。
キャラ名
白澤由紀
霧島政
北上華怜
長篠蓮
宮野紗季
入学してから一週間が過ぎた。
一年二組の教室にも、少しずつ高校生らしい空気が生まれ始めていた。
休み時間になれば、決まった相手の机に集まる生徒がいる。部活動の話をする者や、連絡先を交換する者も増えている。
由紀も、新しい教室に少しずつ慣れてきていた。
華怜と蓮がいる。
宮野紗季とも、本の話をするようになった。
そして前の席には、休み時間になるたびに振り返ってくる政がいる。
今朝も政は、授業が始まる前から筆談ノートを由紀の机へ置いていた。
『昨日の恋愛小説、読み終わった?』
『まだ』
『読むの遅くない?』
『政が何度も聞くから進まない』
『俺は一日一回しか聞いてない』
『昨日は七回聞かれた』
『数えてたの?』
『しつこかったから』
政は少し考えてから、ノートへ大きく書いた。
『じゃあ今日はあと六回聞ける』
由紀は無言でノートを閉じた。
政は返してほしそうに手を伸ばしたが、由紀は机の中へしまう。
その様子を隣で見ていた華怜が、スマートフォンの画面を向けた。
『夫婦の共有財産を没収するのはよくないよ』
『誰が夫婦?』
『そこから説明が必要?』
由紀が華怜をにらんだところで、もも先生が教室へ入ってきた。
桃瀬真帆は教壇へ立つと、黒板に大きく文字を書く。
『席替えをします』
教室中が一気に騒がしくなった。
由紀には声は聞こえないが、生徒たちの表情や動きだけで、全員が反応したことは分かった。
前の席にいた政が、勢いよく振り返る。
『聞いてない』
『今発表されたからでしょ』
『この席でいい』
『私はもも先生じゃない』
『由紀からも言って』
『嫌』
『どうして』
『席替えくらい普通でしょ』
政は明らかに納得していない顔をしていた。
華怜が二人の間から手を伸ばし、ノートへ書き足す。
『政は由紀と離れたくないらしい』
『違う。後ろを向けばすぐ話せるから便利なだけ』
政は慌てて否定した。
由紀はその文字を見て、なぜか少しだけ胸が沈んだ。
便利。
確かに、政にとって自分は話し相手だ。
後ろを向くだけでノートを渡せる今の席は、筆談をするには都合がいい。
それだけのことだろう。
『私はどこでもいい』
由紀が書くと、政は何か言いたそうな顔をした。
しかし、その前にもも先生がくじの入った箱を持って歩き始めた。
一人ずつ紙を引き、書かれた番号の席へ移動する。
華怜は廊下側の前から三番目。
蓮は窓側の一番後ろ。
紗季は教室の中央付近になった。
政が引いた番号は、廊下側の後ろから二番目だった。
由紀の新しい席は、窓側の前から二番目。
教室の端と端だった。
由紀が新しい席へ荷物を運んでいると、政は自分の席に座ったまま、遠くからこちらを見ていた。
由紀と目が合う。
政は自分のノートを持ち上げ、何かを書いて見せようとした。
しかし、距離がありすぎて読めない。
由紀が首を横に振ると、政は肩を落とした。
近くにいた蓮が、そんな政の背中を笑いながら叩いている。
新しい席の隣は、紗季だった。
紗季は机を動かし終えると、スマートフォンへ文字を打つ。
『隣になったね。よろしく』
『よろしく』
『霧島くん、すごい顔してるけど大丈夫?』
由紀は教室の後ろを見る。
政はまだこちらを見ていた。
『席が遠くなっただけ』
『本人にとっては大事件みたい』
『大げさ』
由紀はそう返したが、以前より教室が広く感じられた。
これまでは、分からないことがあれば政の背中を軽く叩けばよかった。
授業中に先生の指示を見逃したときも、政が紙を後ろへ回してくれた。
振り返れば華怜がいて、斜め前には蓮もいた。
今は三人とも遠い。
紗季が隣にいるとはいえ、慣れた場所から離れた不安は消えなかった。
もも先生は席替えが終わると、黒板へ新しい席順を書いた。
由紀が連絡を見逃さないよう、重要な内容はこれまで通り文字でも伝えてくれるらしい。
それでも、授業が始まると由紀は何度か戸惑った。
教師が教室を歩きながら話すと、口元を見ることができない。
周囲の生徒が一斉に教科書を開いたとき、何ページなのか分からなかった。
由紀が黒板と教科書を交互に見ていると、隣から小さな紙が差し出された。
『四十二ページだって』
紗季だった。
由紀はすぐにページを開く。
『ありがとう』
『分からなかったら聞いて』
紗季は笑顔でそう書いた。
由紀はうなずいた。
政が近くにいなくても、誰かが言葉を届けてくれる。
それは少し嬉しかった。
授業の途中、由紀は何となく教室の後ろを見た。
政は先生ではなく、由紀を見ていた。
目が合うと、政は慌てて黒板へ顔を向けた。
少しして、また後ろを見る。
やはり政はこちらを見ている。
由紀が眉を寄せると、政は手元のノートへ何かを書き始めた。
そして、ノートを高く持ち上げる。
『大丈夫?』
大きな文字で書かれていた。
今度は由紀にも読めた。
由紀は自分のノートを開き、同じように大きく書く。
『前を見て』
政は文章を読んだらしく、不満そうに口を尖らせた。
その直後、もも先生が政の机の前へ立った。
教室中の生徒が笑っている。
政は慌ててノートを隠したが、遅かったようだ。
もも先生は政からノートを受け取り、中身を確認する。
そして、その下へ何かを書いて返した。
休み時間になると、政は真っ先に由紀の席まで来た。
『もも先生に怒られた』
『当たり前』
『心配してただけなのに』
『授業を受けて』
政はもも先生が書いた部分を見せる。
『白澤さんは大丈夫です。霧島くんは自分の授業に集中しましょう』
由紀は思わず笑った。
『正しいことしか書いてない』
『由紀まで先生の味方するの?』
『政の味方をする理由がない』
『幼なじみなのに』
『幼なじみなら授業を邪魔してもいいの?』
政は答えに困ったらしく、黙ってノートを閉じた。
その横から、華怜と蓮もやってくる。
『一時間も離れられないとは重症だね』
『休み時間になった瞬間、走っていったからな』
政は二人のスマートフォンを見て、何かを言い返した。
話す速度が速く、由紀には口元を読み取れない。
しかし、華怜はすぐに内容を入力して見せてくれた。
『「由紀が困ってないか確認しに来ただけ」だって』
由紀は政を見る。
『紗季が教えてくれたから大丈夫だった』
政はその文章を読むと、一瞬だけ動きを止めた。
『そっか』
返事はそれだけだった。
政は笑っていたが、いつもより少しだけ元気がないように見えた。
由紀は首をかしげる。
『どうしたの?』
『何でもない』
『今日はそればっかり』
『由紀が大丈夫ならいい』
そう書くと、政は蓮と一緒に自分の席へ戻っていった。
昼休みになり、いつもの四人に紗季を加えた五人で机を囲んだ。
席が離れても、昼食を食べる場所は変わらない。
政は由紀の向かい側に座り、弁当箱を開ける。
由紀の弁当を見たあと、自分の卵焼きを箸で持ち上げた。
『今日も唐揚げと交換』
『今日は入ってない』
由紀が弁当を見せると、政は明らかに残念そうな顔をした。
『じゃあ何と交換する?』
『無理に交換しなくていいでしょ』
『毎日の習慣なのに』
『いつから習慣になったの?』
『昨日から』
『一日しか続いてない』
由紀がそう返すと、華怜と蓮が同時にスマートフォンを出した。
『席が離れた分、おかずでつながろうとしてる』
『健気だな』
由紀は二人をにらんだ。
紗季も画面を読んで笑っている。
政だけが納得できていない顔で、蓮に意味を聞いていた。
昼食のあと、紗季が昨日借りた本の続きを尋ねてきた。
『半分くらいまで読んだ』
『どう?』
『二人とも自分の気持ちに気づくのが遅い』
『幼なじみだから、近すぎて分からないんだよ』
『読んでる方は分かるのに』
『周りから見たら分かりやすいのに、本人たちだけ気づかないの』
紗季がそう書くと、華怜と蓮は同時に由紀と政を見た。
由紀は嫌な予感がして、二人をにらむ。
『何?』
『何でもないよ』
『本の感想を聞いてただけ』
二人は明らかに何かを隠している。
政は自分が見られた理由を理解できておらず、弁当の残りを食べていた。
由紀は紗季から借りた本を思い出す。
幼い頃から一緒にいる二人。
当たり前のように隣にいたため、自分の気持ちに気づけない主人公たち。
由紀は目の前の政を見る。
政は由紀の視線に気づき、首をかしげた。
『今度は本当に顔に何かついてる?』
『何でもない』
『由紀までそれ言うようになった』
由紀は返事を書かず、本の話を続けた。
午後は理科の授業だった。
四人一組で簡単な実験をすることになり、座席の近い生徒で班を作る。
由紀の班には、紗季と男子生徒二人がいた。
実験の手順はプリントに書かれていたため、由紀にも問題なく理解できる。
男子生徒の一人が、由紀へ器具を渡した。
何かを言っているようだが、顔が横を向いていて内容が分からない。
由紀が首をかしげると、男子生徒は慌てて正面へ回った。
「これ、持ってて」
今度は口元が見えた。
由紀はうなずき、器具を受け取る。
少し離れた班では、政が何度もこちらを見ていた。
そのたびに蓮が政の肩をつかみ、実験へ戻している。
由紀はそれを見て、小さく笑った。
紗季が気づき、紙へ書く。
『霧島くん、また見てるね』
『授業に集中してほしい』
『由紀ちゃんも何回も見てるけど』
由紀の手が止まる。
『見てない』
『今も見てた』
『政がこっちを見てるから』
『それで気になるんだ?』
由紀は返事を書けなかった。
紗季はそれ以上追及せず、楽しそうに実験へ戻った。
放課後。
由紀が帰る準備をしていると、政が教室の端から歩いてきた。
手には、いつもの筆談ノートがある。
『席替え、どうだった?』
『普通』
『本当に?』
『紗季が隣だから困らなかった』
『そっか』
また、その返事だった。
由紀は少し迷ってから尋ねる。
『政は?』
『何が?』
『新しい席』
『遠い』
『教室の中でしょ』
『今までは振り返れば由紀がいた』
由紀は文字を見つめた。
政は続けて書く。
『ノートもすぐ渡せない』
『授業中は渡さなくていい』
『休み時間も遠い』
『歩けばいい』
『毎回歩いてる』
『知ってる』
政は少し考え、最後に書き加えた。
『由紀は遠くても平気?』
由紀は答えに迷った。
紗季が隣にいる。
華怜も蓮も同じ教室にいる。
分からないことがあれば、もも先生も文字で伝えてくれる。
だから困ってはいない。
けれど、何度も前の席を見そうになった。
授業が始まる前、政が振り返ってくることを待っていた。
教室が以前より広くなった気がした。
由紀はノートへ、ゆっくりと返事を書く。
『少しだけ遠いと思った』
政は目を見開いた。
『寂しかった?』
『そこまでは書いてない』
『少しは寂しかった?』
『違う』
『じゃあ、どういう意味?』
『教室が広く感じただけ』
『それを寂しいって言うんじゃない?』
由紀はノートを閉じようとした。
しかし、政が両手で押さえる。
『明日はもっと会いに行く』
『授業中は来ないで』
『休み時間ならいい?』
『走らなければ』
『分かった』
政は嬉しそうに笑った。
それだけで、由紀の胸の奥も少し軽くなる。
教室の後ろでは、華怜と蓮が二人の様子を見ていた。
蓮がスマートフォンへ文字を打つ。
『席が離れただけでこれだぞ』
華怜も返事を打った。
『付き合ったら毎日大変そう』
『その前に、いつ付き合うんだろうな』
『本人たち次第なら卒業後かも』
二人は同時にため息をついた。
そんなやり取りに気づかないまま、由紀と政は教室を出た。
席は離れてしまった。
けれど、放課後の帰り道では、いつも通り隣を歩ける。
政が筆談ノートを差し出す。
『明日の朝も待ってる』
『十五分前から?』
『今日は二十分前』
『増やさないで』
『由紀が来るまで待つ』
由紀はその言葉を読み、少しだけ笑った。
『私も行くから、普通に待ってて』
『約束?』
『約束』
教室の中では遠くなった二人の距離も、帰り道では元に戻る。
それでも由紀は、今まで気づかなかった。
政が近くにいることを、どれほど当たり前に思っていたのか。
そして、その当たり前が少し変わるだけで、こんなにも気になってしまうことを。
由紀はまだ、その感情に名前をつけられなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
とうとう席替えで由紀と政は結構離れちゃいましたね。
やっぱり好きな人と離れるのはとても辛いですね。
物語でも華怜と蓮が言ってましたが二人はいつ付き合うのでしょうか?
由紀と政は、幼い頃から筆談を続けてきた大切な幼なじみです。二人にとっては当たり前だった関係も、高校生活の中で少しずつ変化していきます。
まだ自分たちの気持ちに気づいていない二人ですが、華怜と蓮にはすでに何かが見えているようです。これから増えていく四人の日常と、筆談ノートに書かれる新しい言葉を、引き続き楽しんでいただけたらうれしいです。




