第5話 体育館と、知らなかった横顔
この物語を手に取っていただき、ありがとうございます。
『君に届くまで、何度でも』は、耳の聞こえない白澤由紀と、幼い頃から筆談を続けてきた霧島政を中心に描く、学園日常ラブコメです。
言葉は、声だけで伝えるものではありません。文字や表情、視線、そして誰かのために立ち止まる時間にも、気持ちは込められると思います。
私立桐星学園で始まる四人の高校生活と、幼なじみだった由紀と政の関係が少しずつ変わっていく様子を、温かく見守っていただけたらうれしいです。
キャラ名
白澤由紀
霧島政
北上華怜
長篠蓮
宮野紗季
席替えから二日が過ぎた。
由紀の席は変わらず窓側の前から二番目。政の席は、廊下側の後ろから二番目にある。
教室の端と端。
最初は少しだけ遠く感じたものの、隣には紗季がいる。分からない連絡があれば、もも先生も黒板や紙で伝えてくれた。
授業を受けるうえで、困ることはほとんどない。
ただし、休み時間になるたびに政が教室を横断してくるため、以前より目立つようになった。
今も政は、始業前の教室を端から端まで歩き、由紀の机へ筆談ノートを置いた。
『今日、体育あるぞ』
『時間割を見れば分かる』
『楽しみだな』
『私は普通』
『運動苦手だっけ?』
『政よりは得意じゃない』
『勝負する?』
『何の?』
『まだ分からない』
『種目も分からないのに勝負を申し込まないで』
政は少し考えたあと、ノートへ大きく書いた。
『何でも勝つ』
由紀はその文字を見て、ペンを動かす。
『そういうところが単純』
『由紀には負けない』
『種目による』
『じゃあ勝てそうな種目を選んでいい』
『あとで後悔しても知らないから』
由紀が書くと、政は自信満々に笑った。
その様子を隣で見ていた紗季が、スマートフォンを由紀へ向ける。
『由紀ちゃん、意外とやる気だね』
『政がうるさいから』
『負けたくないんでしょ?』
『別に』
『顔が楽しそう』
由紀は無表情を作り、教科書へ視線を落とした。
紗季は笑いながら前を向く。
中学時代からの友人である華怜ならともかく、知り合って間もない紗季にまで、自分の表情を読まれるようになっている。
そのことは少し恥ずかしかったが、不思議と嫌ではなかった。
三時間目の体育は、体育館で行われた。
体操服に着替えた由紀が華怜や紗季と一緒に体育館へ入ると、すでに男子たちがコートの近くに集まっていた。
その中心に政がいる。
政は蓮やほかの男子たちと何かを話しながら、大きく笑っていた。
入学してからまだ一週間ほどしかたっていない。それでも政は、すでに多くのクラスメイトと打ち解けている。
誰かが政の肩を叩く。
別の誰かが政へボールを投げる。
政はそれを片手で受け取り、楽しそうに投げ返した。
由紀は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
昔から知っている姿のはずだった。
政はどこへ行っても人に囲まれる。
初対面の相手にも自然に話しかけ、いつの間にか友達になっている。
由紀とは正反対だ。
けれど、高校の新しい制服や体操服を着た政は、今までより少しだけ遠い人に見えた。
政がこちらへ気づく。
クラスメイトとの会話を止めると、迷わず由紀の方へ歩いてきた。
手には、小さなメモ帳を持っている。
『遅い』
『着替えてただけ』
『勝負を忘れてない?』
『種目も決まってない』
『何でもいい』
政がそう書いたところで、体育教師が体育館の前へ立った。
由紀は教師の顔へ視線を向ける。
体育館は教室より広い。教師が遠くにいると、口元を読み取ることは難しかった。
もも先生も体育館の端に立ち、説明を黒板へ書き始めた。
『準備運動のあと、男女混合ドッジボール』
さらに、その下へ注意事項が続く。
『開始と終了は笛と同時に、赤い旗を上げます』
『由紀さんの近くにいる人は、後ろからボールが来たとき、肩に触れるか手で方向を伝えてください』
由紀は文字を確認し、小さく息を吐いた。
笛の音は聞こえない。
周囲の動きだけでも開始や終了は判断できるが、旗があればより分かりやすい。
必要な配慮だけが書かれていて、由紀を参加させないという選択肢は最初からない。
もも先生が由紀を見て、問題がないか尋ねるように首をかしげた。
由紀がうなずくと、もも先生も笑顔でうなずき返した。
政がメモ帳へ書く。
『俺が同じチームなら、全部教える』
『まだチームは決まってない』
『先生に頼む?』
『絶対にやめて』
『冗談』
『政の場合は本気に見える』
準備運動を終えると、クラスは二つのチームに分けられた。
由紀、華怜、紗季は赤チーム。
政と蓮は白チームだった。
チーム分けを見た政は、明らかに不満そうな顔をした。
蓮が政の背中を叩き、何かを言う。
政はすぐに由紀を指さし、続いて自分を指さした。
勝負だと言っているのだろう。
由紀も政を指さし、親指を下へ向けた。
負けるのは政だ。
政は目を見開いたあと、楽しそうに笑った。
試合開始の前、華怜が由紀へスマートフォンを見せる。
『政に勝ちたい?』
『最初からそのつもり』
『本気だね』
『向こうから言ってきたから』
『それだけ?』
華怜は意味ありげに、白チームの方を見る。
政は女子生徒二人と話していた。
一人は体育委員を一緒に担当する女子で、もう一人は入学してから政と仲良くなった生徒だった。
二人とも笑顔で政の腕を軽く叩いている。
政も何かを言い返し、楽しそうに笑っていた。
由紀はその様子を見たあと、華怜の画面へ返事を打つ。
『何が言いたいの?』
『別に』
『顔が楽しそう』
先ほど紗季に言われた言葉を返すと、華怜はさらに笑みを深くした。
『由紀は楽しそうというより、少し不機嫌そう』
『普通』
『政が女子と話してるから?』
『違う』
『まだ何も言ってないけど』
『今書いたでしょ』
由紀はスマートフォンを華怜へ返し、コートへ向かった。
政が誰と話そうと関係ない。
政は昔から友達が多い。
女子と話している姿も、何度も見たことがある。
今さら気にするようなことではなかった。
そう思っているのに、なぜか先ほどの光景が頭に残った。
赤い旗が上がる。
試合が始まった。
最初にボールを持ったのは白チームだった。
男子生徒が勢いよく投げたボールを、赤チームの生徒が横へ避ける。
ボールが壁へ当たり、別の生徒が拾った。
由紀は周囲をよく見る。
音が聞こえない分、誰がどこを見ているのか、どの方向へ身体を向けているのかを確認する癖がついていた。
投げる直前の肩の動き。
狙っている相手へ向けられた視線。
外野から戻ってくるボールの位置。
由紀は一歩横へ動き、飛んできたボールを避けた。
すぐ近くにいた紗季が驚いた顔をする。
由紀は小さく笑い、次のボールへ視線を向けた。
白チームのコートでは、政がボールを受け取っていた。
政が由紀を見つける。
口元が動いた。
「行くぞ」
はっきりとした動きだったため、由紀にも読み取れた。
政は由紀を狙ってボールを投げる。
速い。
由紀は身体を横へ動かした。
ボールは由紀の腕のすぐ横を通り過ぎ、後ろにいた生徒が捕まえる。
由紀は政を見る。
政は悔しそうにしていた。
由紀は人差し指を立て、左右に振る。
まだまだ。
政も負けじと笑い、親指で自分を指した。
次は当てる。
二人のやり取りを見ていた華怜と蓮は、それぞれのコートで呆れた顔をしていた。
試合が進むにつれ、コートに残る人数は少なくなっていった。
由紀は二度ボールを避け、一度だけ相手へ投げ返した。しかし、投げたボールは政に簡単に捕られてしまった。
政は得意げな表情を見せる。
由紀は悔しくなり、次の機会を待った。
そのとき、華怜が由紀の肩へ軽く触れ、右後ろを指さした。
外野からボールが飛んでくる。
由紀は反射的にしゃがんだ。
ボールが頭上を通り過ぎる。
避けた先に落ちたボールを、由紀はすぐに拾った。
白チームのコートを見る。
政が由紀の方を見ていた。
由紀は迷わずボールを投げる。
政は捕ろうと両手を伸ばした。
しかし、ボールは指先に当たり、そのまま床へ落ちた。
政が当てられた。
由紀は一瞬、何が起きたのか確認する。
白チームの生徒たちが政を見て笑い、赤チームでは華怜や紗季が大きく喜んでいた。
由紀も両手を握り、小さく拳を上げる。
政は床へ落ちたボールを見たあと、由紀を指さした。
信じられないという顔をしている。
由紀は笑顔で、親指を下へ向けた。
政は悔しそうに頭を抱えた。
試合は赤チームの勝利で終わった。
赤い旗が下ろされ、生徒たちがコートの中央へ集まる。
政は一直線に由紀のところへ来た。
汗を拭くより先に、メモ帳を開く。
『最後のは反則』
『どこが?』
『俺が油断してた』
『それは政の問題』
『もう一回』
『試合は終わった』
『次は絶対に勝つ』
『負けた人がよく言う』
由紀が書くと、政は悔しそうに唇をかんだ。
それでも、どこか嬉しそうだった。
蓮が政の肩へ腕を回し、由紀へスマートフォンを向ける。
『こいつ、試合中ずっと由紀しか狙ってなかった』
政がすぐに蓮のスマートフォンを奪おうとする。
由紀は画面を読み終えていた。
『ほかの人を狙えば勝てたかもしれないのに』
由紀がメモ帳へ書く。
政は蓮から逃げるのをやめ、由紀の文字を見た。
『由紀に勝たないと意味がない』
政は迷わず書いた。
由紀は、その文章を見つめた。
ただの勝負の話だ。
朝、自分から言い出したから、由紀に勝ちたかっただけ。
分かっているのに、言葉の別の意味を考えてしまい、由紀はメモ帳を政へ押し返した。
『次は負けないから』
政は由紀の返事を見て、大きく笑った。
休憩時間になると、生徒たちは体育館の壁際へ移動した。
由紀が華怜や紗季と水分を取っていると、白チームの女子生徒が政の周りに集まっていた。
先ほどの試合について話しているらしい。
政が身ぶりを交えて何かを説明すると、女子たちが笑う。
由紀はペットボトルのふたを閉め、視線をそらした。
紗季がスマートフォンを見せる。
『霧島くん、人気だね』
『昔から』
『気にならない?』
『何が?』
『女の子に囲まれてること』
『関係ない』
由紀はすぐに返した。
紗季は追及せず、華怜の方を見る。
華怜は小さく肩をすくめた。
二人が何を考えているのか、由紀には何となく分かった。
政は幼なじみだ。
友達が多くて、誰にでも明るく接する。
自分だけの友達ではない。
そんなことは昔から知っている。
それなのに、高校へ入ってからは、政がほかの女子と笑っている姿が以前より目につく。
由紀がペットボトルを鞄へしまおうとしたとき、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、政が立っていた。
『何でこっちに来たの?』
『由紀が俺のこと見てたから』
『見てない』
『目が合った』
『政がこっちを見たから』
『じゃあ、お互い見てた』
『違う』
政は楽しそうに笑う。
由紀は政の後ろを見た。
先ほど話していた女子生徒たちは、少し離れた場所からこちらを見ている。
『話の途中じゃなかったの?』
『何の?』
『あの子たちと話してた』
『試合の話』
『戻らなくていいの?』
『今は由紀と話してる』
政は当然のように書いた。
由紀は返事に困り、メモ帳へ視線を落とす。
『私とはいつでも話せるでしょ』
『席が遠いから、いつでもじゃない』
『休み時間ごとに来てる』
『足りない』
由紀の手が止まった。
政は自分が書いた言葉の意味を考えていないようだった。
ただ、席替え前より話す時間が減ったことを不満に思っているだけなのだろう。
それでも由紀の胸は、急に落ち着かなくなった。
『政は友達が多いから、私と話さなくても平気でしょ』
由紀は、考えるより先に書いていた。
政はその文字を読み、首をかしげる。
『友達が多いことと、由紀と話すことは別』
『同じ話をほかの人にもすればいい』
『由紀に書きたいから書いてる』
政は、はっきりと書いた。
昔から何度も似たような言葉を見てきた。
話したいから書く。
由紀と話すためなら、時間がかかっても構わない。
政にとっては、それだけのことなのかもしれない。
けれど由紀にとって、その言葉はずっと特別だった。
自分と話すために手間を惜しまない人。
どれだけ周囲に友人が増えても、変わらずノートを持って来てくれる人。
由紀が黙っていると、政が心配そうに顔をのぞき込んだ。
『どうした?』
『何でもない』
『またそれ』
『次の授業が始まる』
『まだ休憩中』
『戻って』
『由紀も一緒に戻るなら』
政が手を差し出す。
由紀はその手を見た。
握る必要はない。
ただ立ち上がるだけなら、一人でできる。
それでも由紀は、ほんの一瞬だけ迷ったあと、政の手を取った。
政が由紀を引き上げる。
手が離れるまでの時間は、ほんの数秒だった。
しかし、離れたあとも、触れていた部分だけが熱く感じられた。
由紀は政から目をそらし、先にコートへ戻る。
後ろでは、華怜と紗季が顔を見合わせていた。
二人とも、何かを言いたそうな表情をしている。
体育の授業が終わると、由紀たちは教室へ戻った。
着替えを済ませて席へ着くと、由紀の机の上に小さな紙が置かれていた。
『今日の勝負は由紀の勝ち』
政の文字だった。
紙の下には、もう一行続いている。
『でも次は絶対に勝つ』
由紀はペンを取り、返事を書く。
『何度やっても同じ』
紙を折り、教室の後ろにいる政を見る。
距離があるため、すぐには渡せない。
由紀が立ち上がろうとしたところで、紗季が紙を受け取った。
『回してあげる』
『ありがとう』
紙は紗季から後ろの生徒へ渡り、何人かの手を経て政の席へ届いた。
政は紙を開く。
由紀の返事を読むと、遠くから悔しそうな顔をした。
そして新しい言葉を書き、同じように紙を前へ回す。
数分後、由紀の机へ戻ってきた。
『じゃあ、毎日勝負する』
『何を?』
『何でも』
『面倒』
『嫌?』
由紀は少し考えてから、その下へ書いた。
『嫌ではない』
返事を受け取った政は、教室の反対側で嬉しそうに笑った。
その表情を見て、由紀も小さく笑う。
席が離れていても、言葉は届く。
何人もの手を借りることもある。
すぐに返事ができないこともある。
それでも政は、由紀へ書くことをやめない。
放課後、いつもの四人で校門を出た。
蓮は昼間の試合で政が負けたことを、何度もからかっているらしい。
政は必死に言い返し、華怜は楽しそうに笑っていた。
会話の内容が分からなくなると、政がすぐにノートを開く。
『蓮が、俺は由紀に弱いって言ってる』
蓮が横から書き足す。
『間違ってない』
華怜も続けた。
『昔から由紀には勝てないもんね』
政は二人からノートを奪い返す。
『次は絶対勝つ』
由紀はペンを受け取った。
『じゃあ、次の勝負を決めて』
『何がいい?』
由紀は少し考える。
勉強なら、政に勝てる可能性は高い。
読書の速さでも負けない。
けれど簡単に勝てるものでは、今日のように楽しくならない気がした。
『政が決めていい』
『本当に?』
『何でも勝つんでしょ』
『言ったな』
政は挑戦的に笑った。
由紀も負けずに見返す。
二人の間で新しい勝負が始まろうとしている横で、華怜と蓮は同時にため息をついた。
二人の表情は、同じことを語っていた。
勝負などしていないで、早く自分たちの気持ちに気づけばいいのに。
けれど由紀と政には、まだ分からない。
相手に勝ちたいと思う気持ちと同じくらい、相手に自分を見ていてほしいと思い始めていることに。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ドッチボール対決は由紀ちゃんほ勝利でしたね!
なんだかんだ言って政が他の女子と話してると嫉妬してる由紀ちゃん可愛いですね!
まだ自分たちの気持ちに気づいていない二人ですが、華怜と蓮にはすでに何かが見えているようです。これから増えていく四人の日常と、筆談ノートに書かれる新しい言葉を、引き続き楽しんでいただけたらうれしいです。




