第九話 目覚め
エンジン始動の朝、鉄也は一時間早く工場に来た。
誰もいない。
赤いフェアレディZが、工場の中で静かに立っている。夜明け前の薄暗い光の中で、ボディの赤が沈んで見えた。
鉄也はエンジンルームを開けて、もう一度全体を確認した。
プラグコード(点火線)の取り回し。キャブレターへの燃料供給。冷却水の量。オイルの量。バッテリーの接続。
一つひとつ、指で触れながら確かめる。
問題はなかった。
全部、やれることはやった。
鉄也は静かにボンネットを閉めた。
――
七時になると宮本が来た。
工場に入るなり、Zを見て、鉄也を見た。
「今日ですか」
「ああ」
宮本は作業着に着替えながら頷いた。何も言わなかった。
七時半、陽が来た。
いつものかばんを肩に提げている。工場のシャッターをくぐって入ってきて、Zを見た。
鉄也と宮本が揃っているのを見て、察したようだった。
「今日、掛けるんですか」
「ああ」
陽はかばんをいつもの椅子に置いた。それからZの前に来た。
ボディに触れた。
初めてだった。
今まで一度も触れなかった。いつも目で見るだけだった。今日は違った。赤いボディに、そっと手のひらを当てた。
何も言わなかった。
鉄也も何も言わなかった。
――
準備を整えてから、鉄也は運転席に乗り込んだ。
五十年前のシートだ。田所が張り替えた黒い革が、体を静かに受け止める。
ステアリング(操舵輪)を握った。
細い。今の車のステアリングより、ずっと細い。革巻きで、少し硬い。半世紀前の職人が仕上げた感触が、掌に伝わってくる。
ペダルを確認する。クラッチ、ブレーキ、アクセル。
燃料コックを開く。
チョークを引く。
鉄也は一度、深く息を吸った。
キーを差し込んだ。
――
最初はセルモーター(始動電動機)だけが回った。
エンジンは掛からなかった。
鉄也はキーを戻した。少し待つ。燃料がキャブレターに回るのを待つ。
もう一度。
セルが回る。回る。回る。
掛からない。
宮本がエンジンルームを覗き込んだ。
「チョーク、もう少し引いてみてください」
鉄也はチョークを増やした。
三度目。
セルが回った瞬間――
ドン、と。
一発、燃えた。
すぐ消えた。
だが確かに、燃えた。
「もう一度」
宮本が言った。
鉄也はキーを回した。
セルが回る。回る。
ドドド――
不揃いな音が出た。鉄也はアクセルをわずかに踏んだ。
ドドドドド――
回転が上がった。不安定だった。息継ぎした。止まりかけた。
鉄也はアクセルを微妙に調整した。上げる。少し戻す。また上げる。
ドドドドドドド――
エンジンが、回り続けた。
――
工場に、音が満ちた。
L型エンジンの音だった。
低く、太く、少し荒い。今の車のエンジンとは全く違う音だ。整然としていない。だが力がある。生きている音だ。
五十年間、眠っていたエンジンが、目を覚ました音だった。
宮本が工場の外に出て、排気を確認した。
「白煙、少し出てますが許容範囲です」
「暖機が進めば消える」
「はい」
鉄也はアクセルを保ちながら、回転数を見ていた。
不安定だった回転が、少しずつ落ち着いてきた。エンジンが熱を持ち始めると、キャブレターが本来の仕事をし始める。燃料と空気の混合が安定する。
ドドドドドド――
音が変わった。
荒さの中に、リズムが生まれた。
――
陽は工場の入り口に立っていた。
動けなかった。
音が体に刺さってくるようだった。低い振動が、足の裏から伝わってくる。工場の空気が震えている。
これがフェアレディZの音だ。
お父さんが好きだった車の音だ。
陽は気づいたら、目が滲んでいた。
泣くつもりはなかった。こらえようとした。でも音が止まらない限り、滲むものも止まらなかった。
宮本が横に来た。
何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。
――
十分後。
鉄也はエンジンを止めた。
静寂が戻った。
工場の中に、排気の匂いが残っている。オイルの匂い。鉄の匂い。
鉄也は運転席から降りた。
宮本が言った。
「掛かりましたね」
「ああ」
「調整、まだかかりますか」
「キャブレターの同調を取る。点火時期も確認する。一週間はかかる」
「やりましょう」
鉄也は頷いた。
陽のところに歩いた。
陽は目が赤かった。それでも俯かなかった。まっすぐ鉄也を見ていた。
「聞こえましたか」
鉄也が聞くと、陽は頷いた。
「聞こえました」
「これがL型の音だ」
「はい」
「お父さんが知っている音だ」
陽は一度だけ唇を結んだ。
「はい」
それだけだった。
それで十分だった。
――
その夜、鉄也は一人で工場に残った。
煙草に火をつけて、赤いZの前に座った。
エンジンはもう止まっている。静かだ。
だがさっきまでここに音があった。五十年ぶりに、このエンジンが声を上げた。
鉄也は煙草の煙を吐きながら、師匠の言葉を思い出した。
――機械は嘘をつかない。人間がちゃんと向き合えば、必ず応える。
応えた。
このエンジンは、ちゃんと応えた。
鉄也は立ち上がり、ボンネットに手を当てた。
まだ温かかった。
さっきまで燃えていた熱が、鉄の中に残っている。
「よく起きた」
誰もいない工場で、鉄也は言った。
機械に向かって言うのは、独り言だ。
それでいい。
(第九話・了)




