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鉄の記憶  作者: 八雲 海


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9/15

第九話 目覚め

エンジン始動しどうの朝、鉄也は一時間早く工場に来た。

 誰もいない。

 赤いフェアレディZが、工場の中で静かに立っている。夜明け前の薄暗うすぐらい光の中で、ボディの赤が沈んで見えた。

 鉄也はエンジンルームを開けて、もう一度全体を確認した。

 プラグコード(点火線てんかせん)の取り回し。キャブレターへの燃料供給ねんりょうきょうきゅう。冷却水の量。オイルの量。バッテリーの接続。

 一つひとつ、指で触れながら確かめる。

 問題はなかった。

 全部、やれることはやった。

 鉄也は静かにボンネットを閉めた。

――

 七時になると宮本が来た。

 工場に入るなり、Zを見て、鉄也を見た。

「今日ですか」

「ああ」

 宮本は作業着に着替えながらうなずいた。何も言わなかった。

 七時半、陽が来た。

 いつものかばんを肩に提げている。工場のシャッターをくぐって入ってきて、Zを見た。

 鉄也と宮本がそろっているのを見て、察したようだった。

「今日、掛けるんですか」

「ああ」

 陽はかばんをいつもの椅子に置いた。それからZの前に来た。

 ボディに触れた。

 初めてだった。

 今まで一度も触れなかった。いつも目で見るだけだった。今日は違った。赤いボディに、そっと手のひらを当てた。

 何も言わなかった。

 鉄也も何も言わなかった。

――

 準備を整えてから、鉄也は運転席に乗り込んだ。

 五十年前のシートだ。田所が張り替えた黒い革が、体を静かに受け止める。

 ステアリング(操舵輪そうだりん)を握った。

 細い。今の車のステアリングより、ずっと細い。革巻きで、少し硬い。半世紀前の職人が仕上げた感触が、てのひらに伝わってくる。

 ペダルを確認する。クラッチ、ブレーキ、アクセル。

 燃料コックを開く。

 チョークを引く。

 鉄也は一度、深く息を吸った。

 キーを差し込んだ。

――

 最初はセルモーター(始動電動機しどうでんどうき)だけが回った。

 エンジンは掛からなかった。

 鉄也はキーを戻した。少し待つ。燃料がキャブレターに回るのを待つ。

 もう一度。

 セルが回る。回る。回る。

 掛からない。

 宮本がエンジンルームをのぞき込んだ。

「チョーク、もう少し引いてみてください」

 鉄也はチョークを増やした。

 三度目。

 セルが回った瞬間――

 ドン、と。

 一発、燃えた。

 すぐ消えた。

 だが確かに、燃えた。

「もう一度」

 宮本が言った。

 鉄也はキーを回した。

 セルが回る。回る。

 ドドド――

 不揃ふぞろいな音が出た。鉄也はアクセルをわずかに踏んだ。

 ドドドドド――

 回転かいてんが上がった。不安定だった。息継いきつぎした。止まりかけた。

 鉄也はアクセルを微妙に調整した。上げる。少し戻す。また上げる。

 ドドドドドドド――

 エンジンが、回り続けた。

――

 工場に、音が満ちた。

 L型エンジンの音だった。

 低く、太く、少しあらい。今の車のエンジンとは全く違う音だ。整然せいぜんとしていない。だが力がある。生きている音だ。

 五十年間、眠っていたエンジンが、目を覚ました音だった。

 宮本が工場の外に出て、排気はいきを確認した。

白煙はくえん、少し出てますが許容範囲きょようはんいです」

暖機だんきが進めば消える」

「はい」

 鉄也はアクセルを保ちながら、回転数を見ていた。

 不安定だった回転が、少しずつ落ち着いてきた。エンジンが熱を持ち始めると、キャブレターが本来の仕事をし始める。燃料と空気の混合こんごうが安定する。

 ドドドドドド――

 音が変わった。

 荒さの中に、リズムが生まれた。

――

 陽は工場の入り口に立っていた。

 動けなかった。

 音が体に刺さってくるようだった。低い振動しんどうが、足の裏から伝わってくる。工場の空気がふるえている。

 これがフェアレディZの音だ。

 お父さんが好きだった車の音だ。

 陽は気づいたら、目がにじんでいた。

 泣くつもりはなかった。こらえようとした。でも音が止まらない限り、滲むものも止まらなかった。

 宮本が横に来た。

 何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。

――

 十分後。

 鉄也はエンジンを止めた。

 静寂せいじゃくが戻った。

 工場の中に、排気の匂いが残っている。オイルの匂い。鉄の匂い。

 鉄也は運転席から降りた。

 宮本が言った。

「掛かりましたね」

「ああ」

「調整、まだかかりますか」

「キャブレターの同調どうちょうを取る。点火時期てんかじきも確認する。一週間はかかる」

「やりましょう」

 鉄也は頷いた。

 陽のところに歩いた。

 陽は目が赤かった。それでもうつむかなかった。まっすぐ鉄也を見ていた。

「聞こえましたか」

 鉄也が聞くと、陽は頷いた。

「聞こえました」

「これがL型の音だ」

「はい」

「お父さんが知っている音だ」

 陽は一度だけくちびるを結んだ。

「はい」

 それだけだった。

 それで十分だった。

――

 その夜、鉄也は一人で工場に残った。

 煙草たばこに火をつけて、赤いZの前に座った。

 エンジンはもう止まっている。静かだ。

 だがさっきまでここに音があった。五十年ぶりに、このエンジンが声を上げた。

 鉄也は煙草の煙を吐きながら、師匠の言葉を思い出した。

 ――機械は嘘をつかない。人間がちゃんと向き合えば、必ず応える。

 応えた。

 このエンジンは、ちゃんと応えた。

 鉄也は立ち上がり、ボンネットに手を当てた。

 まだ温かかった。

 さっきまで燃えていた熱が、鉄の中に残っている。

「よく起きた」

 誰もいない工場で、鉄也は言った。

 機械に向かって言うのは、独り言だ。

 それでいい。


(第九話・了)



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