第八話 組み上がる
足回りの組み付けは、三日かかった。
一つひとつの部品を桐島の指示通りに取り付けていく。ブッシュの硬度を変えて作り直してもらったものを、慎重に圧入する。ショックアブソーバーを規定のトルクで締める。ブレーキホースを桐島が書き込んだ取り回しで配管する。
急がなかった。
一箇所終わるたびに、宮本と二人で確認した。数値を測り、目視し、手で触れて確かめる。問題があれば外してやり直す。
陽は工場の隅の椅子に座って、作業を見ていた。
三日間、ほとんど口を開かなかった。
だが一度も休まなかった。
――
四日目の朝。
足回りの組み付けが終わった。
リフトを下ろすと、フェアレディZが自分の四本のタイヤで地面に立った。
当たり前のことのように見えて、鉄也には当たり前に見えなかった。
錆だらけで積載車に乗せられてきた車が、今は赤いボディを纏い、四本の足で立っている。
宮本が小さく言った。
「立ちましたね」
「ああ」
それだけだった。
陽は椅子から立ち上がって、Zの前に来た。しゃがんで、タイヤと地面の接地面をじっと見た。
「ちゃんと立ってる」
「当たり前だ」
鉄也が言うと、陽は顔を上げた。
「当たり前じゃないです。先週まで、この車は自分では立てなかった」
鉄也は答えなかった。
だが陽の言う通りだと思った。
――
次は内装だった。
シートは表皮が割れ、ウレタンが崩れていた。ダッシュボード(計器盤)はひび割れ、内張りは剥がれている。カーペットは湿気で腐っていた。
シートの張り替えは、向島の革細工職人に頼んだ。
名前は田所八郎。六十七歳。もともと鞄や財布を作っていたが、二十年前から旧車の内装修復を手掛けている。
田所の工房は向島の路地裏にあった。ミシンと革の匂いがする、小さな空間だ。
鉄也がシートを持ち込むと、田所は表皮を剥がして中のウレタンを確認した。
「ウレタンは作り直す。革は当時に近い質感のものを探す」
「純正に近い色でお願いします」
「黒だな」
「はい」
田所はシートを裏返して、フレームの状態を確かめた。
「フレームは生きてる。丁寧に扱われてきた車だ」
「三十年以上、どこかの倉庫に眠っていたようです」
「それにしては状態がいい。最後に乗っていた人間が、ちゃんと保管したんだろう」
陽が聞いていた。
「最後に乗っていたのは、お父さんかもしれません」
田所が陽を見た。
「お父さんの車か」
「はい。ずっと探していた車を、私が代わりに買いました」
田所はシートを作業台に置いた。
「お父さんは今」
「病院にいます」
田所は頷いた。それ以上は聞かなかった。
「一週間でやる」
――
内装の作業と並行して、鉄也はエンジンの最終確認を進めた。
東田精機が削り出したキャブレターのジェット類は、精度が完璧だった。組み付けると、詰まりがなく燃料が通る。ガスケットは素材から切り出したものを使った。
ヘッドカバーを開けて、カムシャフト(弁開閉軸)の状態を確認する。摩耗は想定の範囲内だった。バルブクリアランス(弁隙間)を調整し、タイミングチェーン(調時連鎖)の張りを確かめる。
オイルを入れ替え、冷却水を新しくする。
一つひとつ、丁寧に。
宮本が横で作業しながら言った。
「エンジン、掛かると思いますか」
「掛ける前に、全部確認する」
「確認した上で、掛かると思いますか」
鉄也は少し間を置いた。
「掛かる」
断言した。
宮本は頷いて、また作業に戻った。
――
田所から連絡が来たのは、六日目だった。
予定より一日早い。
工房に取りに行くと、シートが作業台の上に置いてあった。
黒い革。
縫い目が均されている。表面に光沢がある。新品のように見えるが、どこか古い品格がある。当時の雰囲気を残したまま、新しく生まれ変わっていた。
陽がシートに触れた。
「綺麗だ」
「革は正直だ」
田所が言った。
「丁寧に扱えば長持ちする。雑に扱えばすぐ死ぬ。車と同じだ」
陽は縫い目を指でなぞった。
「お父さんが座る場所です」
小さな声だった。
田所は聞こえたはずだが、何も言わなかった。
代わりに鉄也に向かって言った。
「金はいらん。こういう仕事は久しぶりだった」
「田所さん」
「この型の内装を修復したのは、二十年ぶりだ。もうないと思っていた」
田所は工房の奥に戻りながら言った。
「ちゃんと走らせてやれ」
――
工場に戻り、シートを取り付けた。
ダッシュボードは鉄也と宮本で補修した。ひび割れた部分を専用の充填剤で埋め、表面を整える。内張りは新しい素材で作り直した。カーペットは型を取って切り出し、貼り直した。
細かい作業が続いた。
陽も手伝った。最初は雑巾がけだけだったが、いつの間にか内張りの仮留めを手伝うようになり、工具の受け渡しをするようになっていた。
鉄也は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
――
内装が完成したのは、作業を始めてから二ヶ月が経った頃だった。
工場の中で、赤いフェアレディZが完成に近い姿で立っていた。
外装は塗装が戻った。足回りは新しくなった。内装はシートも張り替えられた。
残るのはエンジンだけだった。
東田が削り出したジェット。松永が溶接したボディ。永瀬がメッキを戻した部品。川内が調合した赤。桐島が指示した足回り。田所が縫い直したシート。
全員の仕事が、この一台に入っていた。
鉄也はエンジンルームを覗き込みながら、煙草に火をつけた。
陽が隣に来た。
「いよいよですね」
「ああ」
「エンジンが掛かったら、走れますか」
「調整が必要だ。すぐには走れない」
「でも、もうすぐですね」
鉄也は煙草の煙を吐いた。
「ああ。もうすぐだ」
陽は赤いボディを見た。
夕陽が工場の窓から差し込んで、ボディを照らしている。
ラリーレッドが、橙色の光の中で深みを増した。
陽は小さく呟いた。
「待っててください、お父さん」
鉄也は聞こえなかったふりをした。
聞こえていた。
(第八話・了)




