第七話 走るための骨
足回りとは、車が地面と対話する部分だ。
サスペンション、ステアリング、ブレーキ。人間で言えば脚と腰にあたる。どれだけエンジンが完調でも、どれだけボディが美しくても、足回りが死んでいれば車は走れない。走れても、曲がれない。止まれない。
フェアレディZの足回りを確認したのは、塗装が戻ってきた翌日だった。
宮本がリフトで車体を持ち上げ、下から覗き込んだ。
しばらく無言だった。
「どうだ」
鉄也が聞くと、宮本はゆっくり這い出してきた。
「サスペンションのブッシュ類、全滅です。ゴムが完全に死んでいる」
「ショックアブソーバー(緩衝装置)は」
「右フロントが抜けています。他も怪しい」
「ブレーキは」
「ホース類が硬化してます。このまま踏んだら破裂する」
鉄也は黙って聞いていた。
「ステアリングのタイロッドエンド(操舵連結部品)も交換が必要です。ガタがひどい」
「全部やる」
「部品が――」
「探す」
鉄也は言い切った。
――
ゴム部品の多くは、専門の製造業者に型から起こしてもらうしかなかった。
鉄也は二日かけて電話を掛け続けた。断られた。また掛けた。また断られた。
三軒目に、墨田区内の小さなゴム加工業者が「図面があれば作れる」と言った。
図面はなかった。
鉄也は実物のブッシュを持参して、寸法を測り直した。業者の担当者と二時間かけて仕様を詰めた。素材の硬度、形状、許容誤差。
陽は隣で黙って聞いていた。
打ち合わせが終わって工場を出ると、陽が言った。
「ゴムのサイズを測るだけで、あれだけ時間がかかるんですね」
「ミリ以下の話をしている。適当に作ったら、走り出した瞬間に壊れる」
「そんなに精密なんですか」
「車は全部の部品が正確に噛み合って初めて動く。一つでもずれれば、他の部品に負担がかかる。足回りはその中でも特に繊細だ」
陽は頷いた。
「お父さんが言っていました。車は生き物だって」
「整備士らしい言い方だ」
「どういう意味ですか」
「機械を道具として見る人間と、生き物として見る人間がいる。後者の方が、いい整備士になる」
陽はしばらく黙って歩いた。
「鉄也さんはどちらですか」
鉄也は少し間を置いた。
「生き物だと思っている。だから話しかける」
「車に、ですか」
「独り言だ。気にするな」
陽が小さく笑った。
――
足回りの部品が揃い始めた頃、鉄也は一人の男のことを思い出した。
桐島健三。
かつて日産のテストドライバーをしていた男だ。量産前の車を走らせ、足回りのセッティングに意見を出す仕事だ。フェアレディZの開発にも関わったと、どこかで聞いたことがあった。
今は江東区に住んでいると、旧知の部品屋から聞いた。七十二歳。もう現役ではないが、まだ車には乗っているという。
「会いに行く意味があるか」
宮本に聞くと、宮本は即答した。
「あります」
「足回りのセッティングは俺でもできる」
「できます。でも桐島さんに確認してもらった方がいい。あの車がどう走るべきか、知っている人間が日本にまだいるなら、会いに行くべきです」
鉄也は黙った。
宮本が正しかった。
――
桐島健三は、江東区の古い団地に一人で住んでいた。
エレベーターのない四階建て。桐島の部屋は三階だった。鉄也がインターフォンを押すと、すぐに出てきた。
小柄な老人だった。七十二歳とは思えないほど背筋が伸びている。目が鋭い。車乗りの目だと鉄也は思った。
「城戸さんか。電話の人だな」
「はい。突然お邪魔します」
桐島は陽を見た。
「こちらが依頼主か」
「朝倉陽です。父が日産の整備士でした」
桐島の目が少し動いた。
「整備士。名前は」
「朝倉誠といいます」
桐島はしばらく考えた。
「……朝倉。葛飾の営業所にいた朝倉か」
陽が顔を上げた。
「知っていますか」
「一度だけ会ったことがある。真面目な男だった。車をよく知っていた」
陽は何も言えなかった。
鉄也も黙っていた。
桐島は二人を部屋に招き入れた。
――
六畳の居間に、古い雑誌と資料が積み上げられていた。
自動車雑誌。技術資料。走行データの束。壁には古い車の写真が何枚も貼られている。その中に、赤いフェアレディZの写真があった。
陽がそれを見つめた。
「それはテスト車両だ」
桐島が言った。
「量産前に俺が走らせた。箱根で三百キロ以上走った」
「この色です」
陽が言った。
「ラリーレッドか」
「はい。今、同じ色に塗装してもらいました」
桐島は陽を見た。それから鉄也を見た。
「足回りのセッティングで来たんだろう」
「はい。組み付けの前に、確認していただきたいことがあります」
「持ってきなさい。見る」
――
翌日、部品を持参して桐島のガレージ(車庫)に行った。
桐島はショックアブソーバーを手に取り、ブッシュの硬度を指で確かめた。タイロッドエンドの遊びを測った。ブレーキホースの取り回しを図面で確認した。
一時間、ほとんど無言だった。
やがて顔を上げた。
「ブッシュの硬度、少し柔らかい」
「素材の指定を変えます」
「フロントのショックは純正より少し硬めにした方がいい。あの車は硬い方が素直に走る」
「わかりました」
「ブレーキのホース取り回し、ここを変えろ」
桐島が図面に書き込んだ。鉄也は黙って書き写した。
陽は隣で、二人のやり取りを聞いていた。
しばらくして、桐島が陽に言った。
「お父さんに伝えてくれ」
陽が顔を上げた。
「あの車はな、丁寧に走らせれば必ず応える。乱暴に扱う車じゃない」
陽は頷いた。声が出なかった。
「俺がそう設定した。半世紀前に」
桐島は図面を畳みながら言った。
「ちゃんと走らせてやれ」
――
帰り道。
江東区の運河沿いを二人で歩いた。
陽はしばらく黙っていた。
やがて口を開いた。
「桐島さん、お父さんのことを知っていました」
「ああ」
「日本は狭いですね」
「狭くない。この車が繋いだんだ」
陽は足を止めた。
運河の水面に、夕陽が伸びている。
「この車、いろんな人の記憶の中にあるんですね。直している私たちだけじゃなくて」
「フェアレディはそういう車だ」
鉄也は歩きながら答えた。
「設計した人間、作った人間、走らせた人間、整備した人間、憧れた人間。全員の記憶が、あの一台に入っている」
陽は鉄也の隣を歩きながら、空を見上げた。
「早く走らせたい」
「もう少しだ」
鉄也は言った。
本当に、もう少しだと思っていた。
(第七話・了)




