第六話 昭和の赤
フェアレディZの純正色は何色だったか。
鉄也は古い資料を引っ張り出して調べた。一九七〇年製のS30型に設定されていたカラーコードは複数ある。だが陽が持ち込んだ車のボディには、長年の錆と汚れの下に、かすかに赤の痕跡が残っていた。
赤。
当時の日産が「ラリーレッド」と呼んだ色だ。
派手ではない。燃えるような赤でもない。少し深みのある、落ち着いた赤だった。日本の職人が調合した、あの時代にしか出せない色だと鉄也は思っていた。
「この色を再現できる人間が、まだいるとすれば」
鉄也には一人だけ心当たりがあった。
――
墨田区東向島。
鉄也の工場から歩いて二十分ほどの場所に、「川内塗装」はあった。
外から見ると、ただの古い民家だ。だが裏手に回ると、小さな塗装ブースがある。防音と換気のために改造された、職人の仕事場だ。
川内正一。六十三歳。
かつて自動車メーカーの色彩部門に勤めていた男だ。定年後に独立して、今は旧車専門の塗装を一人でやっている。腕は確かだが、仕事を選ぶ。気に入らない依頼は断る。そういう男だと鉄也は聞いていた。
呼び鈴を押すと、しばらくして川内が出てきた。
「城戸さんか」
「突然すみません」
「いや、電話をもらってたから」
川内は陽を見た。
「この方が依頼主か」
「はい。朝倉陽です」
「話は聞いた。フェアレディのラリーレッドだな」
「再現できますか」
川内はしばらく黙っていた。
「見てみないとわからん。ボディを持ってきてくれ」
――
翌日、ボディを運び込んだ。
川内はボディ全体を丁寧に確認した。松永の板金仕事を見て、小さく頷いた。
「松永さんの仕事か」
「はい」
「相変わらず綺麗だ」
それから残っている塗装の剥がれた部分に顔を近づけて、色を確かめた。小さな懐中電灯で照らして、角度を変えながら見る。
長い時間をかけた。
やがて立ち上がり、腕を組んだ。
「ラリーレッドに間違いない。だが当時の調合は今の塗料では出ない。顔料の成分が違う」
「再現は難しいですか」
「難しい。だができない、とは言っていない」
川内は鉄也を見た。
「時間をくれ。調合を研究する。一週間」
「お願いします」
――
一週間後。
川内から連絡が来た。
工場に行くと、川内が小さな鉄板を持って待っていた。テスト用に調合した色を塗ったものだ。
「見てくれ」
鉄也と陽は鉄板を眺めた。
赤だった。
派手ではない。深みのある、落ち着いた赤。光の当たる角度によって、少し表情が変わる。燃えるようでも、暗いわけでもない。
どこかで見た色だと、鉄也は思った。
昭和の街で、この色の車が走っていた。子供の頃に見た光景が、記憶の奥から滲み出てくる。
「これだ」
鉄也が言うと、川内は頷いた。
「完璧ではない。当時の色を完全に再現するのは不可能だ。だが限りなく近い」
陽は鉄板を両手で持って、光に透かした。
しばらく黙っていた。
「お父さんが好きだった色です」
静かに言った。
「この色の車を、ずっと追いかけていたと言っていました。子供の頃から」
川内は陽を見た。それから鉄板を見た。
「そうか」
短く言って、塗装ブースに向かった。
「やる。時間をくれ」
――
塗装には十日かかった。
下地処理、サーフェーサー(下塗り剤)、ベースコート、クリアコート。工程を丁寧に重ねていく。急げば仕上がりに出る。川内は急がなかった。
鉄也は五日目に様子を見に来た。
ボディはまだ作業の途中だったが、フロントフェンダーだけが仕上がっていた。
赤が、そこにあった。
光を受けて、静かに輝いている。派手さはない。だが目を離せない色だった。半世紀前に日本人が作った色が、この路地裏の工場で息を吹き返していた。
陽は何も言わなかった。
ただ、フェンダーの前にしゃがんで、その赤をじっと見ていた。
どのくらいそうしていたか、鉄也にはわからなかった。
――
仕上がったボディが工場に戻ってきた日、宮本が珍しく声を上げた。
「……綺麗だ」
それだけ言って、あとは黙った。
鉄也も黙って見ていた。
赤いフェアレディZ。
錆だらけで運び込まれてきた車が、今は塗装を纏い、車としての形と色を取り戻している。まだエンジンは掛からない。内装も手つかずだ。足回りも確認が必要だ。
だが確かに、そこに車があった。
半世紀前に日本人が作った車が、もう一度姿を現していた。
陽は工場の入り口に立って、ボディ全体を眺めていた。
鉄也は隣に立って、同じ方向を見た。
「綺麗ですね」
陽が言った。
「ああ」
「お父さん、この色が好きだったんです。昔から」
「そうか」
「小さい頃、お父さんと一緒に街で赤い車を見るたびに、あれがフェアレディだったら最高なのにって言ってた」
鉄也は答えなかった。
代わりに作業着の袖をまくった。
「内装に入る。シートの張り替えが必要だ」
陽は一度だけ赤いボディを見て、それからかばんを床に置いた。
「手伝えることはありますか」
「雑巾を持ってこい。内側から拭く」
「わかりました」
陽は迷わず動いた。
工場に赤いZがある。
少しずつ、本物になっていく。
――
その夜、川内から短い文字連絡が来た。
――金はいらん。あの色をもう一度作れた。それで十分だ。
鉄也は画面を見つめた。
煙草に火をつけて、赤いボディの前に座った。
旋盤職人。板金職人。メッキ職人。塗装職人。
東田だけが明細を出した。他の三人は金を受け取らなかった。
みんな同じことを知っていた。
この車が何者で、何を背負っているか。
鉄也は煙草の煙を吐いた。
「次は足回りだ」
誰もいない工場で、一人呟いた。
まだ終わっていない。
だが確実に、近づいていた。
(第六話・了)




