第五話 光を戻す
江東区木場。
かつて材木の集散地として栄えたこの街に、今も古い職人の工場が点在している。表通りを一本外れると、昭和の匂いがする路地が残っていた。
鉄也が探していたのは、金属表面処理の職人だった。
メッキ。
バンパー、ドアハンドル、モール類――フェアレディZの外装金物は、半世紀の歳月で腐食と変色が進んでいた。研磨だけでは取り戻せない輝きがある。下地から処理し直す必要があった。
鉄也の記憶にある職人は一人だけだった。
江東区木場の「永瀬鍍金」。
――
工場は運河沿いの細い道に面していた。
木造の古い建物。外壁は黒ずんでいる。だが入り口のガラスは磨かれていて、中の様子がよく見えた。
作業台の上に金属部品が整然と並んでいる。
鉄也がドアを開けると、薬品の鋭い匂いがした。メッキ工場特有の匂いだ。奥から小柄な老人が出てきた。
永瀬義雄。六十八歳。
白髪を短く刈り込み、老眼鏡を額に乗せている。手の甲に薬品で変色した跡があった。長年の仕事の痕跡だ。
「城戸か。久しぶりだな」
「十年ぶりです」
「嬢ちゃんは」
「依頼主です」
永瀬は陽をちらりと見て、鉄也に向き直った。
「部品を見せろ」
――
鉄也が持参した部品を作業台に並べた。
フロントバンパー。リアバンパー。ドアハンドル左右。ウィンドウモール。給油口のカバー。
永瀬は老眼鏡を下ろして、一つひとつを手に取った。表面を指で撫でる。光に透かして角度を変える。どこが腐食して、どこが変色して、どこに素地が残っているか、確かめている。
しばらく無言だった。
「クロムメッキだな」
「はい」
「下地の銅とニッケルから全部やり直す。表面だけ磨いても意味がない」
「お願いします」
永瀬はバンパーを光に透かしながら言った。
「フェアレディのバンパーか。昔、何本か仕事したことがある」
「覚えていますか」
「忘れん」
永瀬は静かに言った。
「この曲線は特別だ。設計した人間が、相当こだわった形だ。どこにも無駄がない」
陽が隣で聞いていた。
「メッキをするとき、形のことを考えるんですか」
永瀬は陽を見た。
「当たり前だ。形を理解しないと、光の当たり方がわからない。光の当たり方がわからないと、どこを輝かせるべきかわからない」
陽は黙って頷いた。
「メッキというのはな、金属に光を戻す仕事だ。もともとそこにあった輝きを、もう一度引き出す」
――
作業は十日かかった。
鉄也は三日に一度、様子を見に来た。
来るたびに部品が変わっていた。くすんでいたバンパーが、少しずつ光を取り戻していく。銅メッキ、ニッケルメッキ、クロムメッキ。工程を重ねるごとに、表面の深みが増していった。
五日目に陽も一緒に来た。
作業台の上のドアハンドルを見て、陽が小さく声を上げた。
「綺麗だ」
「まだ途中だ」
永瀬が言った。
「途中でこれだけ光るんですか」
「仕上がったら、もっと違う。半世紀前の光が戻る」
陽はハンドルをじっと見ていた。触れはしなかった。ただ、その輝きを目に焼き付けるように見ていた。
「お父さんに見せたい」
呟くように言った。
永瀬は聞こえたはずだが、何も言わなかった。
代わりに作業台に向かい、次の部品を手に取った。
――
仕上がった部品を受け取る日、鉄也は一人で来た。
陽は病院に行っていた。父親の容態が少し変わったと、朝に連絡があったという。
永瀬が部品を一つずつ丁寧に梱包しながら言った。
「嬢ちゃんのお父さん、具合が悪いのか」
「ああ」
「間に合うか」
鉄也は答えなかった。
永瀬も追って聞かなかった。
梱包が終わると、永瀬は鉄也を見た。
「金はいらん」
「永瀬さん」
「これが最後の仕事になるかもしれん」
永瀬は窓の外を見た。運河の水面が光っている。
「この年になると、本当にやりたい仕事しか残らなくなる。これはそういう仕事だった」
鉄也は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「早く完成させろ」
それだけ言った。
――
工場に戻ると、仕上がったメッキ部品を作業台に並べた。
バンパーが光っている。ドアハンドルが光っている。ウィンドウモールが光っている。
半世紀前、日産の設計者が思い描いた輝きが、そこにあった。
宮本が隣に立って、しばらく無言で眺めた。
「綺麗ですね」
「ああ」
「組み付けたら、また変わりますよ」
「わかってる」
鉄也は一番大きなバンパーを手に取った。ずっしりとした重さが掌に伝わる。
この重さを、陽の父親は知っている。
整備士として、何度も触れたはずの重さだ。
鉄也は部品を丁寧に置き直した。
「次は塗装だ」
宮本が頷いた。
「塗装屋、当てはありますか」
「一人いる。墨田に」
鉄也は作業着の袖をまくった。
Zはまだ、完成には遠い。
だが確実に、車の形を取り戻しつつあった。
(第五話・了)




