第四話 鉄の皮膚
松永勝の工場は、葛飾区の住宅街の奥にあった。
表通りから一本入った路地。両側に古い家が並んでいる。その突き当たりに、看板もない小さな工場が建っていた。シャッターは半分だけ開いている。中から金属を叩く音が聞こえた。
規則正しい音だった。
急いでいない。だが止まらない。職人が一人で仕事をしている音だ。
「松永さん」
鉄也がシャッターの前から声を掛けると、音が止まった。
しばらく間があって、奥から人影が出てきた。六十五歳。がっしりした体格。作業着の袖をまくり上げた両腕に、古い火傷の跡がいくつかある。溶接の火花を長年浴びてきた腕だ。
「城戸か」
「ご無沙汰しています」
「何年ぶりだ」
「七年です」
松永は少し目を細めた。それから鉄也の後ろに立っている陽を見た。
「嬢ちゃんは」
「依頼主です」
松永は頷いて、鉄也に向き直った。
「話を聞こう」
――
工場の中に入ると、作業台の上に車のドアパネルが置いてあった。丁寧に叩き出された跡がある。現役の仕事だ。
松永は引退したわけではなかった。ただ、表に出なくなっただけだ。
鉄也が事情を話すと、松永は黙って聞いていた。フェアレディZ。一九七〇年製。サイドシルの腐食。鉄板の断面まで錆が食い込んでいる状態。
話し終えると、松永はしばらく何も言わなかった。
「写真はあるか」
鉄也がスマートフォンで撮った画像を見せると、松永は老眼鏡をかけて一枚ずつ丁寧に眺めた。指で拡大しながら、腐食の深さを確かめている。
やがて老眼鏡を外した。
「フェアレディか」
「S30型です」
「……久しぶりに見た」
松永の声が、少し変わった。
「若い頃、憧れたもんだ。金がなくて買えなかった。周りの奴もみんなそうだった。雑誌で眺めるだけの車だった」
鉄也は何も言わなかった。
松永は立ち上がり、写真をもう一度見た。
「やる」
一言だった。
「手間は相当かかります。鉄板を切り出して溶接し直す必要が――」
「わかってる」
松永は鉄也の言葉を遮った。
「久々にいい仕事ができそうだ。日本の技術が詰まった車だ。こういうのを直す機会は、もう滅多にない」
――
作業は二週間続いた。
松永は毎日、日が暮れるまで工場にこもった。古い鉄板を慎重に切り取り、新しい鉄板を形に合わせて切り出す。溶接して、叩いて、整形する。一ミリの歪みも許さない。
鉄也は何度か様子を見に来た。
来るたびに、作業が進んでいた。松永の手が、五十年前の設計者の意図をそのまま繋いでいく。
ある日、陽も一緒に来た。
作業を見ていると、松永が溶接の手を止めずに言った。
「溶接というのはな、鉄と鉄を溶かして一つにする仕事だ。継ぎ目がどこにあったか、わからなくなるまでやる」
陽は聞いていた。
「跡が残るのは、仕事が足りないからだ。本当にいい溶接は、最初からそこに一枚の鉄があったように見える」
「それが目標ですか」
「それが最低限だ」
松永は溶接面を下ろして、また火花を散らした。
――
仕上がったボディを見たとき、鉄也は長い間そこに立っていた。
サイドシルは完全に生まれ変わっていた。溶接の跡は滑らかに均され、鉄板の継ぎ目がどこにあるか、もうわからない。
鉄也は這いつくばってフロア下を点検した。宮本も反対側から確認する。
問題はなかった。
立ち上がると、松永が工具を片付けながら言った。
「金はいらん」
「松永さん」
「こういう鉄に触れる機会は、もうないと思っていた」
松永は振り返らなかった。
「若い頃に憧れた車が、もう一度走れるようになる。それで十分だ」
鉄也は一度だけ深く頭を下げた。
言葉は出なかった。
――
帰り道、陽は隅田川沿いの道を歩きながら言った。
「みんな、この車のことを覚えているんですね」
「ああ」
「何十年も前の車なのに」
「忘れられない車というのがある。乗れなくても、買えなくても、ずっと頭の隅に残っている。フェアレディはそういう車だ」
川面に夕陽が反射していた。対岸の工場の煙突が、橙色の空に黒く浮かんでいる。
陽はしばらく川を見ていた。
「お父さんに早く見せたい」
小さな声だった。
鉄也は川の向こうを見たまま答えた。
「次はメッキ職人だ。江東区に一人いる」
急かすような言い方だったかもしれない。
だがそれが、鉄也なりの答えだった。
前に進む。それしかない。
(第四話・了)




