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鉄の記憶  作者: 八雲 海


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3/11

第三話 最初の一人

旋盤せんばん職人を探すのに、三日かかった。

 かつてL型エンジンの補修部品ほしゅうぶひんを削り出していた業者は、鉄也の記憶の中に四軒あった。電話帳で調べると、二軒は廃業。一軒は番号が変わっていてつながらない。残る一軒――足立区あだちく千住せんじゅの町工場「東田ひがしだ精機」だけが、まだ生きていた。

「行くぞ」

 翌朝、鉄也が言うと、陽は無言でかばんを持って立ち上がった。

 工場を出る前に、一度だけフェアレディZを振り返った。

――

 東田精機は、千住の古い商店街を抜けた先にあった。

 周囲は住宅と小さな工場が混在こんざいしている。昭和の頃から変わっていない街並みだ。看板は小さく、シャッターは半分しか開いていない。中から旋盤の回る音が聞こえた。

 金属を削る、一定のリズム。

 鉄也には懐かしい音だった。

 シャッターの前に立つと、中から声が飛んできた。

「何か用か」

 奥に人影がある。作業着姿の老人。七十は超えているだろう。手を止めずにこちらを見ている。

「城戸モータースの城戸です。電話した者です」

「ああ」

 老人は旋盤を止めた。ゆっくりこちらに歩いてくる。名前は東田幸雄ひがしだゆきお。この工場の創業者そうぎょうしゃで、今は一人でやっているという話だった。

「ソレックスのジェットか」

「はい。サイズを測ってきました」

 鉄也が図面ずめんを差し出すと、東田は老眼鏡をかけて眺めた。無言のまま、しばらく数字を見ていた。

「素材は真鍮しんちゅうでいいな」

「お願いします」

「三週間くれ」

「わかりました」

 それだけで話が決まった。値段も聞かなかった。東田も言わなかった。そういう世界だと、鉄也は知っていた。

――

 帰り際、東田が陽を見た。

「嬢ちゃん、この車に乗るのか」

「はい」

「何のために」

 陽は少し間を置いた。

「父に見せるために直しています」

 東田は何も言わなかった。老眼鏡を外して、図面をもう一度見た。

「三週間を二週間にする」

 それだけ言って、工場の奥に戻っていった。

 旋盤の音が、また始まった。

――

 二週間後、部品を受け取りに行くと、東田が封筒ふうとうを差し出した。

明細めいさいだ」

 鉄也は受け取った。開けずにそのままふところにしまった。

「ありがとうございます」

「腕に見合った仕事をした。腕に見合った金をもらう」

 東田はそれだけ言って、また旋盤に向かった。

 鉄也は頭を下げた。

 工場を出てから封筒を開けた。

 陽が隣からのぞき込んだ。

 数字を見て、二人とも黙った。

 安かった。

 腕に見合った、という意味が、その数字にあった。

――

 千住の商店街を歩きながら、陽が口を開いた。

「なぜ最初、値段を聞かなかったんですか」

「聞く必要がない」

「でも」

「東田さんは職人だ。値段より仕事の中身を見る。こちらが真剣なら、向こうも真剣に応える。それだけだ」

 陽はしばらく黙っていた。

 商店街の古い店が並んでいる。鮮魚店せんぎょてん、豆腐屋、金物屋かなものや。シャッターが閉まった店もある。それでもまだ、人の気配がある街だった。

「お父さんも、そういう人でしたか」

 陽が聞いた。

「どういう人だ」

「値段より仕事を見る人」

 鉄也は少し考えた。

「整備士はみんなそうだ。少なくとも、本物は」

 陽は頷いた。

「父が日産にいた頃、お客さんの車を自腹じばらで直したことがあると言っていました。会社には内緒で」

「怒られなかったか」

「怒られました。でも同じことをまたやったと言っていました」

 鉄也は笑いそうになって、こらえた。

「馬鹿な男だ」

「はい」

 陽も笑った。今度は隠さなかった。

――

 部品を抱えて工場に戻ると、宮本がエンジンブロックをのぞき込んでいた。

「どうだった」

「削り出してもらった。これで組める」

 宮本は頷いて、またエンジンブロックに目を戻した。

「シリンダーの摩耗まもう、思ったより軽いですよ。ホーニング(円筒研磨えんとうけんま)で仕上げれば使えそうです」

「オーバーホール(分解整備ぶんかいせいび)できるか」

「やります」

 短いやり取りだった。それで十分だった。

 陽は工場の隅に椅子を置いて、いつもの場所に座った。かばんを膝に置いて、作業を見ている。

 鉄也は作業着のそでをまくりながら、宮本に言った。

「次はボディだ。サイドシルの腐食ふしょくひどい。板金ばんきん屋を探す」

「心当たりありますか」

「一人いる。葛飾かつしかに」

 宮本が少し驚いた顔をした。

「松永さんですか。あの人、もう引退したんじゃ」

「引退した人間に頼む」

 鉄也は言い切った。

「今どきの板金屋じゃ、この仕事はできない」

――

 夜、一人になった鉄也は、工具棚の前に立った。

 古い名刺入れを引き出しから取り出す。色褪いろあせた名刺が何十枚も入っている。かつてこの下町で仕事をしていた職人たちの名前だ。

 廃業した者。引退した者。連絡が取れなくなった者。

 それでも鉄也は捨てなかった。

 捨てる理由がなかった。

 松永勝まつながまさるの名刺を見つけた。電話番号が手書きで書き直してある。二度、番号が変わった。その度に書き直した。

 鉄也は煙草に火をつけながら、名刺を眺めた。

 下町の職人は、表通りには出てこない。看板も出さない。呼ばれれば行く。それだけで食ってきた人間たちだ。

 この街にはまだいる。

 鉄也はそう信じていた。


(第三話・了)


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