第三話 最初の一人
旋盤職人を探すのに、三日かかった。
かつてL型エンジンの補修部品を削り出していた業者は、鉄也の記憶の中に四軒あった。電話帳で調べると、二軒は廃業。一軒は番号が変わっていて繋がらない。残る一軒――足立区千住の町工場「東田精機」だけが、まだ生きていた。
「行くぞ」
翌朝、鉄也が言うと、陽は無言でかばんを持って立ち上がった。
工場を出る前に、一度だけフェアレディZを振り返った。
――
東田精機は、千住の古い商店街を抜けた先にあった。
周囲は住宅と小さな工場が混在している。昭和の頃から変わっていない街並みだ。看板は小さく、シャッターは半分しか開いていない。中から旋盤の回る音が聞こえた。
金属を削る、一定のリズム。
鉄也には懐かしい音だった。
シャッターの前に立つと、中から声が飛んできた。
「何か用か」
奥に人影がある。作業着姿の老人。七十は超えているだろう。手を止めずにこちらを見ている。
「城戸モータースの城戸です。電話した者です」
「ああ」
老人は旋盤を止めた。ゆっくりこちらに歩いてくる。名前は東田幸雄。この工場の創業者で、今は一人でやっているという話だった。
「ソレックスのジェットか」
「はい。サイズを測ってきました」
鉄也が図面を差し出すと、東田は老眼鏡をかけて眺めた。無言のまま、しばらく数字を見ていた。
「素材は真鍮でいいな」
「お願いします」
「三週間くれ」
「わかりました」
それだけで話が決まった。値段も聞かなかった。東田も言わなかった。そういう世界だと、鉄也は知っていた。
――
帰り際、東田が陽を見た。
「嬢ちゃん、この車に乗るのか」
「はい」
「何のために」
陽は少し間を置いた。
「父に見せるために直しています」
東田は何も言わなかった。老眼鏡を外して、図面をもう一度見た。
「三週間を二週間にする」
それだけ言って、工場の奥に戻っていった。
旋盤の音が、また始まった。
――
二週間後、部品を受け取りに行くと、東田が封筒を差し出した。
「明細だ」
鉄也は受け取った。開けずにそのまま懐にしまった。
「ありがとうございます」
「腕に見合った仕事をした。腕に見合った金をもらう」
東田はそれだけ言って、また旋盤に向かった。
鉄也は頭を下げた。
工場を出てから封筒を開けた。
陽が隣から覗き込んだ。
数字を見て、二人とも黙った。
安かった。
腕に見合った、という意味が、その数字にあった。
――
千住の商店街を歩きながら、陽が口を開いた。
「なぜ最初、値段を聞かなかったんですか」
「聞く必要がない」
「でも」
「東田さんは職人だ。値段より仕事の中身を見る。こちらが真剣なら、向こうも真剣に応える。それだけだ」
陽はしばらく黙っていた。
商店街の古い店が並んでいる。鮮魚店、豆腐屋、金物屋。シャッターが閉まった店もある。それでもまだ、人の気配がある街だった。
「お父さんも、そういう人でしたか」
陽が聞いた。
「どういう人だ」
「値段より仕事を見る人」
鉄也は少し考えた。
「整備士はみんなそうだ。少なくとも、本物は」
陽は頷いた。
「父が日産にいた頃、お客さんの車を自腹で直したことがあると言っていました。会社には内緒で」
「怒られなかったか」
「怒られました。でも同じことをまたやったと言っていました」
鉄也は笑いそうになって、こらえた。
「馬鹿な男だ」
「はい」
陽も笑った。今度は隠さなかった。
――
部品を抱えて工場に戻ると、宮本がエンジンブロックを覗き込んでいた。
「どうだった」
「削り出してもらった。これで組める」
宮本は頷いて、またエンジンブロックに目を戻した。
「シリンダーの摩耗、思ったより軽いですよ。ホーニング(円筒研磨)で仕上げれば使えそうです」
「オーバーホール(分解整備)できるか」
「やります」
短いやり取りだった。それで十分だった。
陽は工場の隅に椅子を置いて、いつもの場所に座った。かばんを膝に置いて、作業を見ている。
鉄也は作業着の袖をまくりながら、宮本に言った。
「次はボディだ。サイドシルの腐食が酷い。板金屋を探す」
「心当たりありますか」
「一人いる。葛飾に」
宮本が少し驚いた顔をした。
「松永さんですか。あの人、もう引退したんじゃ」
「引退した人間に頼む」
鉄也は言い切った。
「今どきの板金屋じゃ、この仕事はできない」
――
夜、一人になった鉄也は、工具棚の前に立った。
古い名刺入れを引き出しから取り出す。色褪せた名刺が何十枚も入っている。かつてこの下町で仕事をしていた職人たちの名前だ。
廃業した者。引退した者。連絡が取れなくなった者。
それでも鉄也は捨てなかった。
捨てる理由がなかった。
松永勝の名刺を見つけた。電話番号が手書きで書き直してある。二度、番号が変わった。その度に書き直した。
鉄也は煙草に火をつけながら、名刺を眺めた。
下町の職人は、表通りには出てこない。看板も出さない。呼ばれれば行く。それだけで食ってきた人間たちだ。
この街にはまだいる。
鉄也はそう信じていた。
(第三話・了)




