第二話 L型の声
フェアレディZのボンネットを開けた瞬間、宮本が顔をしかめた。
「……これは」
「ああ」
鉄也は短く答えた。
エンジンルームの中は、想像より酷かった。L型エンジンのヘッドカバーは白い粉を吹いており、冷却水の経路には茶色い澱が固まっている。補機類のゴムホースは硬化して亀裂だらけ。キャブレターは二基とも、外側から見るだけで詰まりが予想できた。
「エンジン、掛かると思うか」
鉄也が聞くと、宮本は首を横に振った。
「掛けたら壊れます。このままじゃ」
「わかってる」
鉄也はエンジンルームを覗き込んだまま、しばらく動かなかった。
五十年。この機械は五十年以上、どこかで眠っていた。それでもL型のブロックは割れていない。基本の骨格は生きている。
死んではいない。眠っているだけだ。
――
陽は今日も来ていた。
工場の隅に小さな椅子を持ち出して、かばんを膝に置いて座っている。邪魔はしない。声も掛けない。ただ、見ている。
鉄也は工具を手に取りながら言った。
「動画は撮るな」
「……わかりました」
陽は素直に従った。スマートフォンをかばんにしまう。
「なぜですか」
しまってから聞いた。
鉄也はキャブレターに手を掛けながら答えた。
「これは見るもんじゃない。音で聞くもんだ」
陽は黙った。しばらく考えてから、もう一度口を開いた。
「音、ですか」
「エンジンの調子は耳でわかる。回転のばらつき、息継ぎ、詰まり。全部音に出る。カメラで撮っても何も映らん」
陽はまた黙った。今度は長かった。
「お父さんも、同じことを言っていました」
鉄也は手を止めなかった。
止めたら、何かが崩れる気がした。
――
キャブレターを取り外すのに一時間掛かった。
ソレックス四十四。二基。フェアレディZのL型に載っていた気化器だ。燃料と空気を混ぜてエンジンに送り込む、心臓部に近い部品である。
作業台に並べると、宮本が首を振った。
「ジェット類、全部詰まってますね。ニードルも固着してる」
「分解する」
「純正の部品、今どこにもないですよ」
「わかってる」
鉄也は答えながら、工具棚から細い道具を取り出した。キャブレター専用の分解工具。今どきのディーラーには置いていない。
一つひとつ、慎重にネジを外していく。五十年分の汚れが、指先に伝わってくる。詰まった燃料の乾いた匂い。酸化したゴムの匂い。それでも構造は単純だ。L型の時代の機械は、人間が理解できる範囲で作られている。
今の車は違う。センサーと制御装置が複雑に絡み合い、コンピューターなしには診断すらできない。それを悪いとは言わない。進歩だ。
だが鉄也は、この単純さの中に職人の意地を見る気がした。
設計した人間の顔が、構造から透けて見える。
――
昼過ぎ、宮本が昼食に出た。
工場には鉄也と陽だけが残った。
作業台の上に広げられたキャブレターの部品を、陽は椅子から立ち上がってそっと近寄り、眺めた。触れはしなかった。ただ見た。
「これが詰まっていると、エンジンが掛からないんですか」
「掛かっても、まともに走らない。燃料と空気の比率がずれる。アクセルを踏んでも息継ぎする」
「息継ぎ」
「エンジンが咳き込む感じだ。ドライバーには、車が躊躇しているように感じる」
陽は小さく頷いた。
「お父さんが言っていました。この車はアクセルの踏み方に正直だって」
「L型はそういうエンジンだ。誤魔化しが効かない。丁寧に扱えば応える。雑に扱えば拗ねる」
陽が少し笑った。初めて見る表情だった。
「人みたいですね」
鉄也は答えなかった。
だが心の中で、そうだ、と思った。
――
夕方。
宮本が帰り、陽も帰り、工場には鉄也一人になった。
作業台の上のキャブレターを見ながら、鉄也は煙草に火をつけた。
部品は自作するしかない。ジェットのサイズを測り、旋盤で削り直せる職人を探す必要がある。ガスケットは素材から切り出す。ニードルは――下町の旧車部品屋を当たれば、あるいは。
この街にはまだいる。そういう人間が。
表通りから外れた路地裏に、看板も出さずに仕事を続けている職人が。鉄也はその何人かと、長い付き合いがあった。
一つ解決すれば、次の問題が見える。
それがこの仕事だ。四十年、ずっとそうだった。
煙草の煙が、工場の天井に向かって昇っていく。
隅田川の方角から、かすかに水の匂いがした。
鉄也は呟いた。声にならない程度の、小さな声で。
「まだ捨てるには早い」
誰かに言ったわけじゃない。
ただ、言わずにいられなかった。
(第二話・了)




