第一話 錆の下に
※この作品はフィクションです。
本作に登場する人物・団体・企業・車種名等はすべて創作上のものであり、実在する個人・団体・企業とは一切関係ありません。また、実在する自動車メーカー、車種、製品名等が登場する場合がありますが、それらの描写は作品の時代背景・雰囲気を表現するための創作であり、当該メーカーおよび関係者の公式見解とは無関係です。
十月の朝、墨田の空は低かった。
隅田川から吹き込む風が、錆びたシャッターを鳴らす。城戸鉄也は毎朝この音で目が覚める。五十八歳。腰に古傷。右の肘は雨が降る前に痛んだ。
それでも毎朝六時に起き、作業着に袖を通した。
工場の正式名称は「城戸モータース」。墨田区の路地裏に、三十年前から構えている。看板の文字はとうに褪せて、通りからでは読めない。全盛期には十人いた従業員も、今は二人だけだ。一人は六十二歳の古参整備士・宮本。もう一人は鉄也自身。
若者はディーラーへ行く。壊れた車は修理より買い替える。それがこの時代の常識だと、鉄也もわかっていた。わかっていながら、シャッターを開け続けた。
この国が作った機械には、まだ走る理由がある。
そう信じていたからだ。
今日、このシャッターを最後に閉める。
宮本にはもう話してあった。昨夜、短く伝えた。宮本は何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、「明日も来ます」とだけ言った。
それでいい、と鉄也は思った。
最後の日くらい、いつも通りがいい。
――
シャッターを開けて、鉄也は煙草に火をつけた。
朝の路地に、煙が流れた。
今日で終わりだ。三十年、開け続けたシャッターを、今日閉める。感慨はなかった。あると思っていたが、なかった。ただ、冷たい空気があった。隅田川の匂いがあった。それだけだった。
そのとき、路地の向こうに人影が見えた。
若い女だった。二十二、三歳か。小柄で、肩に大きなかばんを提げている。積載車の助手席から降りて、荷台を指差した。
荷台に載っていたのを見た瞬間、鉄也は煙草を持ったまま動けなくなった。
日産フェアレディZ。
製造は一九七〇年。半世紀以上前の車だ。ボディ全体に赤錆が浮き、塗装は無数の亀裂で割れている。フロントガラスは曇り、タイヤは完全に潰れていた。生きているのか死んでいるのかも、ぱっと見ではわからない。
「直してもらえますか」
女が言った。
工場の油と埃の匂いに、少し顔をしかめながら。
「この車を、走れるようにしてほしいんです」
鉄也はしばらく黙って車を見た。それから女を見た。
「あんた、この車の持ち主か」
「はい。朝倉陽といいます」
鉄也は煙草の煙を吐いた。
今日で閉める、と言おうとした。
言えなかった。
代わりにもう一度、フェアレディZに目を戻した。
――
鉄也はしばらく黙って車を見た。それから女を見た。
「無理だ」
鉄也は言った。
「なぜですか」
「部品がない。技術者もいない。金をいくら積んでも、この状態から走らせるのは現実的じゃない」
陽は黙っていた。反論もしなかった。ただまっすぐに鉄也を見ていた。
「お父さんの車なんです」
それだけ言った。
「どんな人だ」
鉄也が聞くと、陽は少し考えた。
「日産の整備士でした。無口な人でした。でも車の話だけは、止まらなくなる人でした」
鉄也は何も返せなかった。
――
陽が帰ったあと、鉄也は一人でZの前に立った。
宮本はとっくに帰宅していた。工場には鉄也とこの車だけが残っている。
しゃがんで、ボンネットに手を当てた。錆の感触が掌に伝わってくる。冷たい。長い間、誰にも触れられていなかった冷たさだ。
フェアレディZ。
鉄也が整備士になりたての頃、憧れた車だった。当時の日本が、世界に向けて作った一台。速さだけじゃない。形に、音に、あの時代の日本人の意地が込められていた。
父親は日産の整備士だったという。
同じ時代に、同じ車を見ていた人間がいた。立場は違っても、この車への思いは同じだったはずだ。
四十年前。鉄也が初めてレンチを握ったとき、師匠がこう言った。
――機械は嘘をつかない。人間がちゃんと向き合えば、必ず応える。
今も信じているか、と自分に問うた。
答えは出なかった。
――
翌朝、陽はまた来た。
開店前の工場の前に、静かに立っていた。大きなかばんを肩に提げたまま、シャッターが開くのを待っていた。
「昨日、無理だと言った」
鉄也はシャッターを上げながら言った。
「聞こえていました」
「それでも来たのか」
「はい」
鉄也は舌打ちをしそうになって、こらえた。
工場の奥に停められたフェアレディZを、陽はじっと見ていた。昨日と同じ目だ。怯えてもいない。焦ってもいない。ただ、見ている。
「お父さんは今どこにいる」
鉄也が聞くと、陽は少しだけ間を置いた。
「病院です。もう長くないと言われています」
それ以上は言わなかった。
鉄也も聞かなかった。
代わりに工具棚の奥に手を伸ばし、古い布に包まれたものを取り出した。
四十年前に初めて握った、一本のレンチ。
錆一つない。毎年、油を差して保管してきた。
鉄也はそれを持ったまま、フェアレディZのボンネットの前に立った。
「見ていろ」
低い声で言った。
「直るかどうかはわからん。だが、何がどうなっているかくらいは調べてやる」
陽は何も言わなかった。
ただ、かばんをそっと床に置いた。
(第一話・了)




