表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄の記憶  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第一話 錆の下に

※この作品はフィクションです。

本作に登場する人物・団体・企業・車種名等はすべて創作上のものであり、実在する個人・団体・企業とは一切関係ありません。また、実在する自動車メーカー、車種、製品名等が登場する場合がありますが、それらの描写は作品の時代背景・雰囲気を表現するための創作であり、当該メーカーおよび関係者の公式見解とは無関係です。


十月の朝、墨田すみだの空は低かった。

 隅田川すみだがわから吹き込む風が、びたシャッターを鳴らす。城戸鉄也は毎朝この音で目が覚める。五十八歳。腰に古傷ふるきず。右のひじは雨が降る前に痛んだ。

 それでも毎朝六時に起き、作業着に袖を通した。

 工場の正式名称は「城戸モータース」。墨田区の路地裏ろじうらに、三十年前から構えている。看板の文字はとうにせて、通りからでは読めない。全盛期には十人いた従業員も、今は二人だけだ。一人は六十二歳の古参整備士・宮本。もう一人は鉄也自身。

 若者はディーラーへ行く。壊れた車は修理より買い替える。それがこの時代の常識だと、鉄也もわかっていた。わかっていながら、シャッターを開け続けた。

 この国が作った機械には、まだ走る理由がある。

 そう信じていたからだ。

 今日、このシャッターを最後に閉める。

 宮本にはもう話してあった。昨夜、短く伝えた。宮本は何も言わなかった。うなずきもしなかった。ただ、「明日も来ます」とだけ言った。

 それでいい、と鉄也は思った。

 最後の日くらい、いつも通りがいい。

――

 シャッターを開けて、鉄也は煙草たばこに火をつけた。

 朝の路地に、煙が流れた。

 今日で終わりだ。三十年、開け続けたシャッターを、今日閉める。感慨かんがいはなかった。あると思っていたが、なかった。ただ、冷たい空気があった。隅田川の匂いがあった。それだけだった。

 そのとき、路地の向こうに人影が見えた。

 若い女だった。二十二、三歳か。小柄で、肩に大きなかばんを提げている。積載車せきさいしゃの助手席から降りて、荷台を指差した。

 荷台に載っていたのを見た瞬間、鉄也は煙草を持ったまま動けなくなった。

 日産フェアレディZ。

 製造は一九七〇年。半世紀以上前の車だ。ボディ全体に赤錆あかさびが浮き、塗装は無数の亀裂きれつで割れている。フロントガラスは曇り、タイヤは完全につぶれていた。生きているのか死んでいるのかも、ぱっと見ではわからない。

 「直してもらえますか」

 女が言った。

 工場の油とほこりの匂いに、少し顔をしかめながら。

 「この車を、走れるようにしてほしいんです」

 鉄也はしばらく黙って車を見た。それから女を見た。

 「あんた、この車の持ち主か」

 「はい。朝倉陽あさくらひなたといいます」

 鉄也は煙草の煙を吐いた。

 今日で閉める、と言おうとした。

 言えなかった。

 代わりにもう一度、フェアレディZに目を戻した。

――

 鉄也はしばらく黙って車を見た。それから女を見た。

 「無理だ」

 鉄也は言った。

 「なぜですか」

 「部品がない。技術者もいない。金をいくら積んでも、この状態から走らせるのは現実的じゃない」

 陽は黙っていた。反論もしなかった。ただまっすぐに鉄也を見ていた。

 「お父さんの車なんです」

 それだけ言った。

 「どんな人だ」

 鉄也が聞くと、陽は少し考えた。

 「日産の整備士でした。無口な人でした。でも車の話だけは、止まらなくなる人でした」

 鉄也は何も返せなかった。

――

 陽が帰ったあと、鉄也は一人でZの前に立った。

 宮本はとっくに帰宅していた。工場には鉄也とこの車だけが残っている。

 しゃがんで、ボンネットに手を当てた。錆の感触がてのひらに伝わってくる。冷たい。長い間、誰にも触れられていなかった冷たさだ。

 フェアレディZ。

 鉄也が整備士になりたての頃、憧れた車だった。当時の日本が、世界に向けて作った一台。速さだけじゃない。形に、音に、あの時代の日本人の意地が込められていた。

 父親は日産の整備士だったという。

 同じ時代に、同じ車を見ていた人間がいた。立場は違っても、この車への思いは同じだったはずだ。

 四十年前。鉄也が初めてレンチを握ったとき、師匠がこう言った。

 ――機械は嘘をつかない。人間がちゃんと向き合えば、必ず応える。

 今も信じているか、と自分に問うた。

 答えは出なかった。

――

 翌朝、陽はまた来た。

 開店前の工場の前に、静かに立っていた。大きなかばんを肩に提げたまま、シャッターが開くのを待っていた。

 「昨日、無理だと言った」

 鉄也はシャッターを上げながら言った。

 「聞こえていました」

 「それでも来たのか」

 「はい」

 鉄也は舌打ちをしそうになって、こらえた。

 工場の奥に停められたフェアレディZを、陽はじっと見ていた。昨日と同じ目だ。おびえてもいない。焦ってもいない。ただ、見ている。

 「お父さんは今どこにいる」

 鉄也が聞くと、陽は少しだけ間を置いた。

 「病院です。もう長くないと言われています」

 それ以上は言わなかった。

 鉄也も聞かなかった。

 代わりに工具棚こうぐだなの奥に手を伸ばし、古い布に包まれたものを取り出した。

 四十年前に初めて握った、一本のレンチ。

 錆一つない。毎年、油を差して保管してきた。

 鉄也はそれを持ったまま、フェアレディZのボンネットの前に立った。

 「見ていろ」

 低い声で言った。

 「直るかどうかはわからん。だが、何がどうなっているかくらいは調べてやる」

 陽は何も言わなかった。

 ただ、かばんをそっと床に置いた。


(第一話・了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ