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鉄の記憶  作者: 八雲 海


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第十話 声を整える

 キャブレターの同調どうちょうとは、二基のキャブレターが同じ呼吸をするように合わせる作業だ。

 片方が強く吸い、片方が弱く吸えば、エンジンは均等きんとうに燃えない。左右の気筒きとうで力にばらつきが出る。アクセルを踏んだとき、車が真っ直ぐ走らない。

 道具はシンクロナイザー(負圧測定器ふあつそくていき)。二本のホースをそれぞれのキャブレターに繋ぎ、吸入負圧きゅうにゅうふあつを測る。左右の数値がそろったとき、同調が取れたと言う。

 単純な原理だ。

 だが揃えるのは簡単ではない。

 アイドル調整ネジを微妙びみょうに回す。数値が動く。もう片方を調整する。また動く。一方を触れば他方に影響えいきょうが出る。数値を見ながら、少しずつ、少しずつ追い込んでいく。

 経験がなければ、いつまでも終わらない作業だ。

――

 鉄也は朝から取り掛かった。

 エンジンを暖機だんきする。水温計すいおんけいが安定するまで待つ。それからシンクロナイザーを繋いで、数値を読み始める。

 陽は今日も来ていた。

 いつもの椅子に座って、見ている。

 宮本は別の仕事をしながら、時々様子を見に来た。

 工場の中に、L型の低いアイドリング音がひびいている。

 昨日より安定していた。暖機が進むにつれて、音が落ち着いてきた。だがまだ揃っていない。耳をますと、わずかに左右の息が違う。

 鉄也にはわかった。

 数値より先に、耳でわかった。

――

 一時間作業して、陽が声を掛けた。

「音が変わりましたね」

 鉄也は手を止めずに答えた。

「どう変わった」

「昨日より、揃ってきた気がします」

 鉄也は少し驚いた。

「わかるか」

「なんとなく。左右で違う音がしてたのが、少し近づいた感じがします」

 鉄也はシンクロナイザーの数値を見た。

 陽の言う通りだった。左右の差が、作業前より縮まっている。

「整備士の娘だな」

 鉄也が言うと、陽は少し照れたようにうつむいた。

「子供の頃から、お父さんの仕事を見ていました。工場についていって、ずっと見ていた」

「何年も見ていれば耳が育つ」

「お父さんもそう言っていました。まず音を覚えろって」

 鉄也はうなずいた。

 正しい整備士だ、と思った。

――

 同調作業は丸二日かかった。

 二日目の昼過ぎ、左右の数値がほぼ揃った。

 アイドリング音が変わった。

 低く、均等に、一定のリズムできざむ音になった。荒さは残っている。L型の音だから、今の車のようななめらかさはない。だがばらつきが消えた。

 宮本が隣に来て、耳をかたむけた。

「取れましたね」

「ああ」

「いい音だ」

 珍しく宮本が感想を言った。

 鉄也も同じことを思っていた。

 いい音だった。

 日本人が作ったエンジンの、本来の声だった。

――

 同調の次は点火時期てんかじきの確認だった。

 タイミングライト(点火時期測定器てんかじきそくていき)をプラグコードに当て、クランクプーリー(回転軸円盤かいてんじくえんばん)の刻印こくいんを光で確認する。点火が早すぎても遅すぎても、エンジンは本来の力を出せない。

 デスビ(点火配電器てんかはいでんき)を少しずつ回して、最適な位置を探す。

 回転が上がったときの音が変わった。

 張りが出た。

 L型が本来持っている力が、少しずつ顔を出してきた。

「いいですね」

 宮本が言った。

「まだだ」

 鉄也は答えた。

「もう少し追い込む」

 細かい調整を続けた。

 陽は黙って見ていた。

――

 三日目の夕方。

 鉄也は最後の確認をした。

 アイドリング。空吹からぶかし。回転の上がり方。戻り方。

 問題はなかった。

 エンジンは、本来の声でしゃべっていた。

 鉄也はエンジンを止めた。

 静かになった工場で、宮本が言った。

試験走行しけんそうこう、いつにしますか」

明後日あさっての朝早く。人が少ない時間に」

「どこを走りますか」

「隅田川沿いだ。まず平坦へいたんな道を走らせる」

 宮本は頷いた。

 陽が立ち上がった。

「私も乗れますか」

 鉄也は少し間を置いた。

「助手席に乗れ」

 陽は頷いた。

 それ以上は何も言わなかった。

 言葉より、明後日を待つ方を選んだ。

――

 その夜。

 鉄也は工場に一人残って、煙草を吸った。

 試験走行の前夜だった。

 赤いZを見ながら、鉄也はここまでを振り返った。

 東田が削り出したジェット。松永が溶接したボディ。永瀬が光を戻した部品。川内が調合した赤。桐島が指示した足回り。田所が縫い直したシート。

 全員の仕事がこの一台に入っている。

 陽の父親は今も病院にいる。

 容態ようだいは聞いていない。陽も話さない。だが時々、病院に行く日がある。その日は顔が違う。目が少し遠くなる。

 間に合うか。

 鉄也は自分に問いかけた。

 答えは出なかった。

 出なかったが、手だけは動かし続けた。

 それしかなかった。

――

 明後日の朝。

 このエンジンが、初めて公道こうどうを走る。

 五十年ぶりに。

 鉄也はボンネットに手を当てた。

 この仕事が終わったら、シャッターを閉める。

 そう決めていた。だが今夜はその先を考えなかった。

 考える必要がなかった。

「もう少しだ」

 静かな工場に、その声だけが響いた。


(第十話・了)


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