第十一話 最初の道
朝五時。
墨田区の空はまだ暗かった。
東の空だけが、かすかに白み始めている。隅田川の水面が、夜明け前の光を静かに反射していた。
工場のシャッターを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
赤いフェアレディZが、暗い工場の中で待っていた。
――
陽は五時前に来た。
鉄也より早かった。
工場の前に立って、シャッターが開くのを待っていた。最初に来た日と同じだった。あの日と違うのは、もう見知らぬ顔ではないことだ。
「早いな」
「眠れなかったので」
それだけ言って、工場の中に入った。
Zを見た。
何も言わなかった。
――
宮本は五時半に来た。
三人で最後の確認をした。
タイヤの空気圧。ブレーキフルード(制動液)の量。エンジンオイルの量。冷却水。燃料。
問題はなかった。
鉄也は運転席に乗り込んだ。
陽が助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締める音がした。
宮本が工場の外に立って、発進を見届ける役だった。
鉄也はキーを差し込んだ。
チョークを引く。
一度、深く息を吸う。
キーを回した。
セルが回る。
ドドドドドド――
一発で掛かった。
昨日までと同じ音だった。だが今日は違った。工場の外に出る音だ。公道を走る音だ。
鉄也はゆっくりクラッチを繋いだ。
――
工場の外に出た瞬間、音が変わった。
壁に反射していた音が、空に向かって広がった。
L型の音が、墨田の夜明け前の空気に溶けていく。
鉄也はゆっくりアクセルを踏んだ。
車が動いた。
五十年ぶりに、このフェアレディZが自分の力で地面を蹴った。
陽は助手席で、前を向いたまま動かなかった。
何も言わなかった。
ただ、両手を膝の上で固く組んでいた。
――
隅田川沿いの道に出た。
この時間、車はほとんどいない。街灯が等間隔に並んでいる。川の向こうに工場の灯が見える。
鉄也はゆっくり走らせた。
時速三十キロ。
感触を確かめながら走る。ステアリングの応答。ブレーキの効き。サスペンションの動き。桐島が指示した足回りの感触を、実際に走りながら確認する。
問題はなかった。
真っ直ぐ走った。
ブレーキを踏むと、真っ直ぐ止まった。
ステアリングを切ると、素直に曲がった。
当たり前のことだった。
だが鉄也には、当たり前に感じなかった。
――
一キロほど走ったところで、鉄也はアクセルを少し踏み込んだ。
時速五十キロ。
L型の音が変わった。
低音の中に、張りが加わった。回転が上がるにつれて、音に芯が通る。今の車では聞けない音だ。電子制御がない。センサーもない。エンジンが直接、自分の声で喋っている。
「速い」
陽が小さく声を上げた。
「まだ半分も踏んでいない」
「これで半分なんですか」
「L型はここからだ」
鉄也はそれ以上踏まなかった。
今日は試験走行だ。限界を試す日ではない。
だがこのエンジンが、まだ力を持っていることはわかった。
半世紀眠っていても、本質は変わっていなかった。
――
川沿いの道を一往復して、工場に戻った。
宮本が待っていた。
「どうでしたか」
「問題ない」
「足回りは」
「桐島さんの指示通りだ。素直に走る」
宮本は頷いた。
鉄也は運転席から降りた。
陽は助手席からゆっくり降りた。
工場の前に立って、Zを見た。
エンジンはまだ掛かっている。アイドリング音が、朝の空気に響いている。
陽は何も言わなかった。
しばらくして、口を開いた。
「お父さんに電話していいですか」
鉄也は少し驚いた。
「病院に、か」
「はい。声だけでも聞かせたくて」
鉄也は頷いた。
「エンジンを掛けたまま掛けろ」
陽はスマートフォンを取り出した。
電話が繋がった。
陽はスマートフォンをZのエンジンルームに向けた。
何も言わなかった。
ただ、L型の音を届けた。
三十秒ほどそうしていた。
それから電話口に向かって、静かに言った。
「聞こえた?」
しばらく黙って、聞いていた。
やがて陽の目が、細くなった。
笑っていた。
「うん。もうすぐだから」
それだけ言って、電話を切った。
――
鉄也はエンジンを止めた。
静寂が来た。
川の音だけが残った。
水の音。
鳥の声。
朝の墨田の音。
陽は工場の前でZを見ていた。
夜明けが来ていた。
墨田の空が、橙色に染まり始めていた。その光の中で、赤いZのボディが静かに輝いていた。
宮本が言った。
「綺麗ですね」
「ああ」
――
工場に戻りながら、鉄也は残りの作業を頭の中で整理した。
微調整がまだある。
アイドリングの回転数を少し上げる。点火時期をもう一度確認する。足回りのアライメント(車輪調整)を取る。
それが終われば――
完成だ。
鉄也は工場のシャッターを開けながら、陽に言った。
「あと少しだ」
陽は頷いた。
「はい」
その声が、いつもより少し急いでいた。
鉄也は気づいていた。
父親の時間が、残り少ないことを。
(第十一話・了)




