第十二話 どこまでも
残りの作業はあと一つだった。
アライメント(車輪調整)。
四本のタイヤの角度を正確に揃える作業だ。これが狂っていると、真っ直ぐ走っているつもりでも車がどちらかに流れる。タイヤが偏摩耗する。ステアリングが重くなる。
専用の測定器が必要だった。
鉄也の工場にはない。
近所の整備工場に頼もうとしたが、S30型のデータを持っている工場が見つからなかった。規格が古すぎて、現代の測定器では対応していないと断られた。
三軒、断られた。
四軒目に電話したとき、相手が言った。
「足立に一人いる。古い測定器を今でも使っている爺さんが」
――
足立区梅島。
古い測定器というのは、光学式のアライメント測定器だった。レーザーではなく、鏡と光を使う旧式の機械だ。今どき使っている工場はほとんどない。
持ち主は七十歳の整備士、荒木信夫。
もう現役は退いているが、工場だけは手放していなかった。
「古い車が来たときのために取ってある」
荒木は測定器を撫でながら言った。
「この機械、もう部品もない。壊れたら終わりだ。それでも捨てられなかった」
「S30型のデータはありますか」
「ある」
荒木は棚から古いバインダーを取り出した。手書きのデータが並んでいる。
「三十年前に自分で測って書き留めた。まさかまた使う日が来るとは思わなかったが」
鉄也は頷いた。
この国には、まだこういう人間がいる。
――
Zを荒木の工場に運び込んだのは、翌朝だった。
陽も来ていた。
荒木は光学式の測定器をゆっくり準備した。鏡を取り付け、光軸を合わせる。時間がかかった。急かさなかった。この作業は急げるものではない。
測定が始まった。
左フロントが少し狂っていた。荒木がアジャスター(調整器)を回して修正する。右リアも微妙にずれていた。少しずつ、少しずつ追い込んでいく。
一時間かかった。
荒木が顔を上げた。
「揃った」
「ありがとうございます」
荒木はバインダーに数値を書き込んだ。
「これで真っ直ぐ走る。どこまでも」
どこまでも、という言葉が工場に残った。
――
作業が終わり、荒木が道具を片付けながら陽に言った。
「お父さんに見せるんだってな」
「はい」
「日産の整備士か」
「はい。ずっとこの車が好きだったので」
荒木は頷いた。
「俺も好きだった。若い頃、この車が走っているのを見るたびに、日本もやるじゃないかと思った」
陽は微笑んだ。
「お父さんも同じことを言っていました」
「そうか」
荒木は測定器を丁寧に布で拭いた。
「早く見せてやれ。親父さんに」
陽は頷いた。
「はい。あとは――」
そのとき、陽のスマートフォンが鳴った。
――
着信画面を見た瞬間、陽の顔が変わった。
病院からだった。
陽は工場の外に出た。
鉄也と荒木は工場の中で、何も言わなかった。
荒木は測定器を拭き続けた。
鉄也は工具を片付けるふりをした。
外で陽の声が聞こえた。
言葉は聞こえなかった。
だが声の色でわかった。
――
五分後。
陽が工場に戻ってきた。
顔は変わっていなかった。
泣いていなかった。
ただ、目が少し遠かった。
鉄也を見た。
「父が、さきほど」
そこで一度、止まった。
「亡くなりました」
工場が静かになった。
荒木が測定器から手を離した。
鉄也は何も言えなかった。
陽は続けた。
「朝は大丈夫だったんですけど、急変したみたいで__」
また止まった。
今度は少し長かった。
「間に合いませんでした」
静かな声だった。
責める声ではなかった。
ただ、事実を言っていた。
――
しばらく誰も動かなかった。
荒木が静かに工場の奥に引っ込んだ。
鉄也と陽だけが残った。
陽は工場の外に止めてあるZを見た。
赤いボディが、朝の光を受けていた。
さっき荒木が「どこまでも走る」と言った車だ。
陽はしばらくZを見ていた。
それから鉄也を見た。
「修理、もういいです」
静かな声だった。
「見せる人が、いなくなったので」
鉄也は何も言わなかった。
言葉が、どこにもなかった。
陽は一度だけ頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
それだけ言って、かばんを肩に掛けた。
工場を出ようとした。
――
鉄也は工具棚に手を伸ばした。
レンチを取った。
陽の背中に向かって、鉄也は何も言わなかった。
ただ、レンチを持って、Zのボンネットを開けた。
最終確認をするように、エンジンルームを覗き込んだ。
指で、プラグコードを確かめた。
いつもの動作だった。
朝に必ずやる、確認の動作だった。
――
陽は工場の出口で、止まった。
振り返った。
鉄也がエンジンルームを覗き込んでいた。
何も言わない。
急かさない。
ただ、手を動かしていた。
陽はしばらく、その背中を見ていた。
それから、かばんをゆっくり床に置いた。
いつもの場所に、椅子を引いた。
座った。
何も言わなかった。
鉄也も何も言わなかった。
工場に、朝の光が差し込んでいた。
赤いZが、その光の中で静かに立っていた。
(第十二話・了)




