第十四話 完成
灯火類の確認から始めた。
ヘッドライト。車幅灯。テールランプ。ブレーキランプ。ウインカー。バックランプ。
一つひとつ、宮本が外に回って確認する。鉄也が車内からスイッチを操作する。
「ヘッドライト、左右問題なし」
「ウインカー、前後問題なし」
「ブレーキランプ、問題なし」
宮本の声が、工場の外から届く。
陽は工場の隅で、工具を並べていた。
全部の灯火が点いた。
半世紀ぶりに、このZのランプが光った。
――
ホーンを鳴らした。
短く、一度だけ。
低い音だった。
今の車のホーンより、少し太い音だった。
宮本が戻ってきた。
「問題なしです」
「ワイパーをやる」
スイッチを入れると、ワイパーが動いた。
古いゴムを新しく交換していた。左右、同じリズムで動く。
「問題なし」
――
最後にもう一度、エンジンを掛けた。
ドドドドドド――
L型の音が工場に響いた。
暖機が終わると、アイドリングが安定した。
鉄也はしばらくその音を聞いていた。
耳を澄ますと、左右のキャブレターが同じ呼吸をしているのがわかった。東田が削り出したジェットが、燃料を正確に送っている。桐島が指示した足回りが、地面を正確に掴んでいる。
全員の仕事が、この音の中にある。
鉄也はエンジンを止めた。
――
静寂が戻った。
宮本が工具を片付けた。
陽が立ち上がった。
三人とも、Zを見ていた。
赤いボディ。光を取り戻したバンパー。張り替えられたシート。真っ直ぐ立つ四本のタイヤ。
錆だらけで運び込まれてきた車が、今は完全な姿で工場に立っていた。
宮本が静かに言った。
「終わりましたね」
鉄也は答えなかった。
しばらく黙っていた。
それから、一度だけ頷いた。
「ああ」
――
陽がZに近づいた。
ボディに手を当てた。
フロントフェンダーから、ゆっくりとドアに向かって手を滑らせた。
川内が調合した赤が、指先の下を流れた。
ドアハンドルに触れた。
永瀬が光を戻したハンドルだ。
冷たかった。
金属の冷たさが、掌に伝わった。
陽はそのまま、ドアを開けた。
運転席に乗り込んだ。
ステアリングを握った。
細いステアリングだった。
革の感触が手に伝わる。
フロントガラスの向こうに、工場のシャッターがある。
その先に、道がある。
陽はしばらく、そこから動かなかった。
――
やがて陽が運転席から降りてきた。
鉄也の前に立った。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
しばらく頭を上げなかった。
鉄也は答えなかった。
陽が顔を上げたとき、鉄也と目が合った。
「料金を教えてください」
陽が言った。
鉄也は少し間を置いた。
工具棚を見た。
Zを見た。
それから陽を見た。
「線香替わりだ」
それだけ言った。
――
陽は動かなかった。
鉄也の顔を見ていた。
何か言おうとした。
言葉を探した。
見つからなかった。
見つかるはずがなかった。
陽はもう一度、深く頭を下げた。
今度はもっと長かった。
肩が、わずかに震えていた。
――
宮本が工具箱を片付けながら、何も言わなかった。
聞こえていたはずだった。
それでも何も言わなかった。
この工場には、言葉にしないことがある。
三十年、宮本はそれを知っていた。
――
陽が顔を上げた。
目が赤かった。
それでも真っ直ぐ、鉄也を見た。
「一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「最初に走るとき、助手席に乗ってもらえますか」
鉄也は少し驚いた。
「俺がか」
「はい。一人で走り出す自信が、まだないので」
鉄也はZを見た。
赤いボディが、工場の蛍光灯の下で静かに光っていた。
「わかった」
短く答えた。
「いつにする」
「明日の朝、お父さんのお骨を持って来ます」
鉄也は頷いた。
「早めに来い。人が少ない時間に走る」
「はい」
陽はもう一度Zを見た。
「お父さん、喜ぶと思います」
独り言のように言った。
鉄也は答えなかった。
だが心の中で思った。
きっとそうだ、と。
――
その夜。
工場に一人残った鉄也は、煙草に火をつけた。
赤いZの前に座った。
完成した車が、静かに立っている。
東田。松永。永瀬。川内。桐島。田所。荒木。
七人の職人が、この一台に仕事を入れた。
東田以外の六人は、金を受け取らなかった。
みんな同じことを知っていた。
この車が、何を背負っているか。
鉄也は煙草の煙を吐いた。
明日、このZが走り出す。
父親はいない。
それでも走る。
走るべき理由が、この車にはある。
鉄也はボンネットに手を当てた。
いつもより長く、触れていた。
まだ少し温かかった。
昼間に掛けたエンジンの熱が、まだ鉄の中に残っていた。
「明日、走るぞ」
誰もいない工場で、鉄也は言った。
Zは何も答えなかった。
ただ、そこに立っていた。
それで十分だった。
(第十四話・了)




