第十五話 走れ
朝五時。
墨田の空は晴れていた。
十月の空だった。Zが初めて運び込まれてきた日と、同じ季節だった。
鉄也は一時間早く工場に来た。
シャッターを開けると、冷たい空気が流れ込んだ。
赤いフェアレディZが、工場の中で待っていた。
鉄也はエンジンルームを開けて、最後の確認をした。
オイル。冷却水。燃料。プラグコード。
全部、問題なかった。
ボンネットを閉めた。
――
五時半、陽が来た。
黒いかばんを肩に提げていた。
いつものかばんではなかった。
両手で、小さな白い箱を持っていた。
骨壺だった。
その上に、額縁に入った写真が載っていた。
五十代くらいの男性だった。
作業着を着ていた。
笑っていた。
整備士の顔だった。
鉄也は一度だけ、その写真を見た。
それから陽を見た。
何も言わなかった。
――
陽はZの前に立った。
白い箱と写真を胸に抱いたまま、しばらく赤いボディを見た。
「来たよ、お父さん」
静かに言った。
工場には鉄也と陽だけがいた。
宮本は今日は来ない。鉄也がそう伝えていた。
今日は二人だけでいい。
――
陽は助手席のドアを開けた。
シートに、白い箱をそっと置いた。
骨壺の隣に、写真を立て掛けた。
助手席に、父親が座った。
陽はドアを閉めた。
静かな音がした。
――
陽が運転席に乗り込んだ。
鉄也は後部座席に乗り込んだ。
狭かった。
S30型の後部座席は、大人が座るには狭い。鉄也は膝を折って、体を縮めた。
それでも、ここがいいと思った。
今日の主役は前の二人だ。
――
陽がキーを差し込んだ。
手が少し震えているのが、鉄也にはわかった。
チョークを引く。
深く息を吸う音がした。
キーを回した。
ドドドドドド――
一発で掛かった。
L型の音が、工場に響いた。
助手席の写真の中で、父親が笑っていた。
――
陽はしばらく、アイドリングのまま動かなかった。
暖機をしていた。
いや、それだけではなかった。
この音を聞いていた。
お父さんが好きだった車の音を。
ずっと憧れていた車の音を。
鉄也も黙って聞いていた。
L型の音が、朝の工場に満ちていた。
――
やがて陽がクラッチを踏んだ。
一速に入れた。
ゆっくり、クラッチを繋いだ。
車が動き出した。
工場のシャッターをくぐった。
外に出た。
十月の朝の空気が、窓から流れ込んできた。
冷たかった。
澄んでいた。
――
隅田川沿いの道に出た。
この時間、車はいない。
街灯が並んでいる。川面が光っている。
陽はゆっくり走らせた。
最初は時速二十キロ。
道を確かめるように。
車の感触を確かめるように。
助手席の父親に、景色を見せるように。
――
墨田の街が流れていった。
古い工場。路地裏。朝の光が差し込み始めた商店街。
昭和から続く街並みが、赤いZの窓から流れていく。
この街でずっと働いてきた人間たちが、まだ眠っている時間だった。
東田が削り出したジェットが、燃料を送っている。
松永が溶接したボディが、朝風を受けている。
永瀬が光を戻したバンパーが、街灯を反射している。
川内が調合した赤が、夜明けの空の下を走っている。
桐島が整えた足回りが、地面を掴んでいる。
田所が縫い直したシートに、父親が座っている。
荒木が揃えたタイヤが、真っ直ぐ道を踏んでいる。
全員の仕事が、今、走っていた。
――
しばらくして、陽がアクセルを少し踏み込んだ。
L型の音が変わった。
低音の中に、張りが加わった。
回転が上がるにつれて、音に芯が通る。
鉄也は目を閉じた。
この音だ。
四十年前、整備士になりたての頃に聞いた音だ。
日本人が作った音だ。
この国の職人が、意地を込めて作ったエンジンの声だ。
まだ、ここにある。
――
隅田川沿いを走り続けた。
川の向こうに、工場の煙突が見えた。
空が明るくなっていた。
東の空から、光が差し始めていた。
朝だった。
本当の朝が来ていた。
――
陽は何も言わなかった。
泣いていなかった。
前を向いていた。
助手席の父親も、前を向いていた。
写真の中で、笑ったまま。
作業着を着たまま。
整備士のまま。
――
どのくらい走ったか、鉄也にはわからなかった。
やがて陽が、川沿いの空き地に車を止めた。
エンジンを切らなかった。
アイドリングのまま、川を見ていた。
隅田川が、朝の光を受けて光っていた。
対岸の街が、少しずつ目を覚ましていた。
陽が助手席の写真を見た。
「走ったよ、お父さん」
静かな声だった。
「ちゃんと走った」
L型の音が、低く続いていた。
川面に、風が渡った。
鉄也は後部座席で、窓の外を見ていた。
何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
この音が、全部を言っていた。
――
しばらくして、陽がエンジンを切った。
静寂が来た。
川の音だけが残った。
水の音。
鳥の声。
朝の墨田の音。
陽は写真を両手で持った。
胸に抱いた。
それだけだった。
それで十分だった。
――
工場に戻ったのは、朝七時だった。
宮本がシャッターの前に立っていた。
来ないはずだったが、来ていた。
鉄也と目が合った。
宮本は何も聞かなかった。
鉄也も何も言わなかった。
ただ、シャッターを開けた。
いつもの朝だった。
――
陽はZに乗ったまま、エンジンを掛け直した。
ドドドドドド――
L型の音が、もう一度工場に響いた。
助手席には、白い箱と写真がそのままあった。
窓を開けて、陽が鉄也を見た。
「錆だらけで持ち込んだ車が、こんなに走るとは思いませんでした」
鉄也は頷いた。
「お前の車だ。これからも、お前が走らせろ」
陽の目が、また光った。
泣いてはいなかった。
だが目が光っていた。
「走りました」
陽が言った。
「ああ」
「お父さんと一緒に」
「ああ」
「ありがとうございました」
鉄也は頷いた。
それだけだった。
――
陽がクラッチを繋いだ。
Zが工場の前を離れていく。
赤いボディが、朝の光の中を遠ざかっていく。
助手席の父親が、窓の向こうで笑ったまま、小さくなっていく。
L型の音が、墨田の路地に響きながら、やがて聞こえなくなった。
――
鉄也は工場の前に立って、その音を聞いていた。
聞こえなくなってから、工場の中に入った。
シャッターを開けたままにした。
朝の光が、工場の床に差し込んでいた。
何もない床だった。
四十年間、数えきれない車を受け入れてきた床だった。
今は、何もない。
だが、たった今まで、ここにZがあった。
錆だらけで運び込まれてきた車が、ここから隅田川沿いを走っていった。
日本人が作った車が。
整備士の父親と娘が。
この下町の職人全員の仕事が。
今、墨田の街を走っている。
――
宮本が工場に入ってきた。
空っぽの床を見た。
鉄也を見た。
それから、工具棚の前に並んで立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
隅田川の方角から、かすかに水の匂いがした。
やがて宮本が言った。
「いい仕事でしたね」
鉄也は空の床を見たまま答えた。
「ああ」
また黙った。
今度は鉄也の方から口を開いた。
「よくついてきてくれた」
宮本は少し間を置いた。
「当たり前です」
それだけだった。
二人とも、何もない床を見ていた。
鉄也はレンチを手に取った。
重さは四十年前と同じだった。
「シャッター、閉めるか」
鉄也が言うと、宮本は頷いた。
「はい」
二人でシャッターの前に立った。
鉄也が手を掛けた。
ゆっくり、下ろした。
墨田の朝の光が、細くなって、消えた。
城戸モータース、最後の朝だった。
(第十五話・了)




