同じ朝ではない
朝。
目が覚める。
最初に見たのは、
天井だった。
木目は見えない。
光だけが、
薄く部屋に落ちている。
昨日と同じ朝。
そう思った。
思ってから、
少し違うことに気づく。
廊下の向こうに、
椅子がある。
そのことを知っている朝だった。
ユウトはゆっくり起き上がる。
床へ足を下ろす。
冷たい。
その冷たさは、
昨日と同じだった。
部屋の戸を開ける。
廊下は静かだった。
誰もいない。
椅子もある。
扉もある。
何も変わっていない。
それなのに、
昨日までとは少し違う。
ユウトは椅子の前まで歩く。
座らない。
立ったまま、
扉を見る。
少しだけ。
本当に少しだけ。
それから、
食堂へ向かった。
後ろを振り返らなかった。
・・・
「おはよう」
アーシャは、
いつもと同じように言った。
「おはようございます」
返事も同じ。
鍋の湯気。
皿の音。
窓から入る風。
どれも、
昨日までと変わらない。
「今日は畑?」
「はい」
ユウトは頷く。
「先に行こうと思います」
アーシャは少しだけ驚いた。
今までは、
食後にゆっくり出ていた。
今日は違う。
「そう」
笑った。
でも、
理由は聞かなかった。
ユウトも言わなかった。
椅子のことも。
扉のことも。
朝食を食べ終える。
椀を重ねる。
立ち上がる。
廊下を通る。
椅子は、
そのままだった。
ユウトは止まらない。
止まる必要が、
今日はなかった。
歩く。
ただ歩く。
宿を出る。
・・・
畑には、
ガイルがいた。
もう土を返している。
鍬が土へ入る。
返る。
また入る。
同じ動き。
同じ音。
ユウトは近づく。
「早いな」
ガイルが言う。
「今日は」
ユウトは少しだけ考える。
「早く来ようと思いました」
「そうか」
ガイルはそれ以上聞かない。
鍬を一本、
こちらへ差し出す。
ユウトは受け取る。
土へ入れる。
重い。
昨日より少しだけ重い。
力を入れる。
土は返る。
きれいには返らない。
少し崩れる。
「深い」
ガイルが言う。
ユウトは鍬を少し浅く入れる。
今度は軽い。
「浅い」
「難しいですね」
「そうだ」
ガイルは土を見る。
「毎日違う」
ユウトも土を見る。
昨日と同じ畑。
同じ土。
でも、
昨日と同じ力では返らない。
「昨日と同じじゃない」
思わず口に出た。
ガイルは鍬を止める。
「何がだ」
「朝です」
ユウトは土を返しながら言う。
「同じ朝だと思いました」
土が崩れる。
「違いました」
ガイルは何も言わない。
少しだけ間があってから、
「昨日が残る」
とだけ言った。
短い。
それだけ。
でも、
ユウトは頷いた。
昨日が残る。
椅子も。
扉も。
言わなかったことも。
全部、
朝まで残っている。
だから、
同じ朝にはならない。
・・・
昼前。
鍛冶場へ向かう。
火の音がする。
今日はついている。
戸は開いていた。
ドラムが鉄を打っている。
甲高い音が、
村へ響く。
ユウトは入口で立ち止まる。
「入れ」
珍しく、
先に言われた。
ユウトは中へ入る。
炉は熱い。
昨日まで壁に立てかけてあった板は、
見当たらない。
探す。
端にあった。
削られていない。
そのまま。
「使うんですか」
ユウトが聞く。
ドラムは槌を止めない。
「使わん」
「でも置いてあります」
「ああ」
鉄を打つ。
火花が散る。
「捨てないんですね」
槌が止まる。
ドラムは鉄を炉へ戻した。
「捨てられん」
短い。
「どうしてですか」
少し長い沈黙。
炉の音だけが残る。
「必要になるかもしれん」
ユウトは板を見る。
必要になる。
使うとは違う。
捨てるとも違う。
「使わないかもしれませんよ」
「そうだ」
ドラムは頷く。
「それでも置く」
ユウトは少しだけ笑った。
「椅子みたいですね」
ドラムはこちらを見た。
ほんの一瞬。
口元が、
少しだけ緩んだ気がした。
「そうかもしれん」
その一言だけだった。
・・・
午後。
広場を歩く。
以前なら、
中央を避けていた。
今日は違う。
中央を歩こうとも思わない。
端を歩こうとも思わない。
足が、
自然に道を選ぶ。
途中で、
子どもとすれ違う。
子どもは笑って走っていく。
何も知らない。
扉のことも。
椅子のことも。
それでいい。
そう思った。
初めてだった。
・・・
村長宅の前。
ルーンが、
花壇に水をやっていた。
如雨露を傾ける。
静かな音。
「こんにちは」
ユウトが言う。
「こんにちは」
ルーンも返す。
少しだけ笑う。
「今日は眠そうじゃないね」
「少しだけ」
「眠れた?」
「はい」
ルーンは頷く。
「そうか」
水が土へ落ちる。
染み込む。
「昨日」
ルーンが言いかける。
止まる。
ユウトは待つ。
「いや」
首を振る。
「何でもない」
その言葉を聞いて、
ユウトは少しだけ笑った。
「何ですか」
ルーンも笑う。
「今のは聞くんだね」
「はい」
「昨日は聞かなかったのに」
その言葉に、
二人とも黙った。
風が吹く。
花が揺れる。
ルーンは如雨露を置いた。
「昨日は」
静かに言う。
「ありがとう」
ユウトは驚かなかった。
何に対してなのか、
何となく分かったから。
「俺は」
少し考える。
「何もしてません」
「そうかな」
ルーンは首を振る。
「君は何もしないことをした」
その言葉が、
胸へ落ちる。
何もしないこと。
昨日、
自分は聞かなかった。
言わなかった。
開けなかった。
それを、
何もしなかったとは思っていなかった。
でも、
ルーンはそう言った。
「何もしないのは」
ルーンが続ける。
「難しい」
それだけだった。
説明はない。
昔話もない。
前の話もない。
それでも、
その一言だけで十分だった。
ユウトは頷く。
「はい」
二人はそれ以上、
何も話さなかった。
・・・
夕方。
宿へ戻る。
廊下の椅子。
いつもの場所。
扉。
閉まったまま。
ユウトは椅子へ近づく。
背もたれへ手を置く。
少しだけ押す。
ぎし、と鳴る。
その音だけ聞いて、
食堂へ戻った。
今日は座らなかった。
今日は、
それでよかった。
アーシャが夕食を並べる。
ガイルが戻る。
ドラムも来る。
四人が揃う。
誰も、
扉の話をしない。
でも。
誰も、
扉を忘れてもいない。
そのことだけが、
食卓の静けさに残っていた。
・・・
夜。
部屋へ戻る。
耳を澄ませる。
廊下は静かだった。
もう、
誰の声もしない。
断片も聞こえない。
目を閉じる。
昼に返した土。
鍛冶場の板。
花壇へ落ちた水。
廊下の椅子。
全部、
今日の中にある。
昨日とは違う。
でも、
昨日を消してはいない。
ユウトは布団へ身体を預ける。
扉は、
まだ開かない。
自分も、
まだ開けない。
それでいい。
そう思えたのは、
初めてだった。
その夜は、
静かに眠れた。




