言わなかったこと
朝。
椅子は、
まだ廊下にあった。
扉の少し手前。
昨日、
ユウトが置いた場所。
背もたれが、
ほんの少しだけ扉の方を向いている。
夜のうちに、
誰かが座った。
そのことだけが分かる。
誰かまでは、
分からない。
ユウトは階段の途中で止まった。
昨夜の声が、
まだ耳の奥に残っている。
今度。
まだ。
止める。
決めさせない。
よくないまま、
やめる。
どれも、
自分に向けられた言葉だった。
たぶん。
それでも、
部屋を出た時から、
誰にも聞かなかった。
食堂から、
鍋の蓋が鳴る音がした。
一度。
少し間を置いて、
もう一度。
「おはよう」
アーシャの声。
ユウトは椅子から目を離した。
「おはようございます」
階段を降りる。
アーシャは鍋の前に立っていた。
いつもより、
少しだけ背中が丸い。
振り返ると、
いつもの顔になった。
「眠れた?」
「眠れませんでした」
アーシャの手が止まる。
すぐには笑わなかった。
「そっか」
それだけ。
昨日までなら、
何かを足したかもしれない。
横になっていただけでもいい。
今日は休んで。
無理しないで。
でも、
何も足さなかった。
ユウトは席に座る。
朝食は、
少なかった。
眠れていないことを、
言う前から分かっていた量。
「昨日」
言いかける。
アーシャの指が、
鍋の縁で止まる。
夜、
廊下にいましたか。
何を話していたんですか。
前も、というのは何ですか。
全部、
言える。
アーシャは待っている。
聞きたくない顔ではない。
聞かれたら、
答えなければならない顔だった。
「昨日の味噌汁より、
少し薄いですね」
別の言葉が出た。
アーシャが瞬きをする。
鍋を見る。
「……そうかも」
「水、多かったですか」
「たぶん」
アーシャは蓋を少しずらす。
湯気が逃げる。
それ以上、
昨日の話には戻らなかった。
ユウトは味噌汁を飲む。
薄い。
でも、
温かい。
言おうとした言葉は、
消えていない。
喉の奥に戻っただけだった。
食事を終える。
皿を台所へ運ぶ。
廊下の椅子が、
視界の端に入る。
アーシャも、
一度だけそちらを見た。
二人とも、
何も言わない。
宿を出ると、
ガイルがいた。
入口の横。
畑へ向かう格好ではない。
鍬を持っていない。
ただ、
立っている。
「遅い」
「まだ朝です」
「そうだな」
声はいつも通りだった。
でも、
目は一度だけ宿の奥へ向いた。
「昨日」
ユウトが言う。
ガイルの肩が、
ほんの少し動く。
「何だ」
聞いていました。
そう言えばいい。
ガイルは、
たぶん否定しない。
言い訳もしない。
ただ、
何かをまた止めようとする。
そんな気がした。
「椅子、
誰か座りましたか」
ユウトは聞いた。
ガイルの目が細くなる。
「知らん」
短い。
嘘には聞こえなかった。
本当にも聞こえなかった。
「向きが変わってました」
「そうか」
「戻した方がいいですか」
「お前が置いた」
それだけ。
ガイルは宿の奥を見ない。
「なら、
お前が決めろ」
昨夜の言葉が、
胸の奥で重なった。
決めさせるのか。
決めさせたくない。
ユウトはガイルを見る。
ガイルは、
こちらを見ていない。
でも、
言った。
お前が決めろ。
昨夜とは違う。
あるいは、
違うふりをしているだけかもしれない。
「戻しません」
ユウトが言う。
ガイルは頷かない。
「そうか」
それだけ言って、
歩き出す。
畑の方ではない。
鍛冶場の方へ。
「畑は?」
ユウトが聞く。
ガイルは止まらない。
「今日は後だ」
「どうしてですか」
少しだけ間があった。
「重心が悪い」
誰の。
聞かなかった。
ガイルはそのまま、
道の向こうへ消えた。
昼前。
鍛冶場から音がしなかった。
火の匂いもない。
戸は閉まっている。
ユウトは前まで行き、
一度だけ立ち止まった。
声をかけるか迷う。
その前に、
中からドラムの声がした。
「開いてる」
戸は閉まっている。
ユウトは取っ手に触れる。
軽く押すと、
開いた。
中は暗い。
炉に火はない。
ドラムは床に座り、
昨日の板を見ていた。
扉を塞ぐために持ってきた板。
まだ、
何も削られていない。
何も打たれていない。
ただ、
壁に立てかけられている。
「使わないんですか」
ユウトが聞く。
「今日は使わない」
「昨日も、
使いませんでした」
「ああ」
ドラムは板を見たまま答える。
ユウトは入口に立っている。
入っていいとは言われていない。
出ろとも言われない。
「昨日の夜」
言葉を出す。
ドラムの指が、
板の端で止まる。
「何だ」
「火、
使いましたか」
少しだけ沈黙。
「使ってない」
「そうですか」
また、
違うことを聞いた。
ドラムは何も言わない。
何を聞こうとしたのか、
分かっているように見えた。
でも、
聞き返さなかった。
「板は」
ドラムが言う。
「置いてあるだけだ」
「はい」
「置いてあるものを、
使うとは限らない」
ユウトは板を見る。
「言葉もですか」
ドラムがこちらを見る。
一瞬だけ。
「何の話だ」
声は低い。
けれど、
怒ってはいない。
ユウトは首を振る。
「分かりません」
本当だった。
分かっていることもある。
分からないこともある。
その間に、
今の言葉があった。
ドラムはそれ以上聞かない。
ユウトも、
昨夜のことは言わなかった。
鍛冶場を出る。
戸を閉める。
完全には閉まらず、
少しだけ隙間が残った。
ユウトは直そうとする。
中から声がした。
「そのままでいい」
手を離す。
隙間は残る。
午後。
広場は、
いつもより人が少なかった。
誰かがいないわけではない。
それぞれが、
少しずつ端に寄っている。
中央だけが空いている。
ユウトはそこを通る。
以前なら、
足が止まった場所。
今日は、
止まらない。
中央へ立つわけでもない。
避けるわけでもない。
ただ、
通る。
村長宅の前に、
ルーンがいた。
扉に手をかけたまま、
こちらを見ている。
「眠れたかい」
同じ問い。
ユウトは立ち止まる。
「眠れませんでした」
ルーンの指が、
取っ手から離れる。
「そうか」
その声は、
何かを知っている声だった。
「ルーンさんは?」
ユウトが聞く。
「私?」
「眠れましたか」
ルーンは微笑もうとする。
微笑む前に、
やめた。
「眠らなかったよ」
初めて、
そう答えた。
ユウトは昨夜を思い出す。
最後まで残った、
音のしない足取り。
やはり、
ルーンだったのかもしれない。
「何をしてたんですか」
聞けた。
昨夜の話をしていた。
そう答えるかもしれない。
答えないかもしれない。
ルーンは村長宅の扉を見る。
「座っていた」
「どこで」
少し長い沈黙。
「宿で」
嘘をつかなかった。
でも、
全部は言わなかった。
椅子に座ったのか。
扉の前にいたのか。
誰かと話していたのか。
ユウトは続きを待つ。
ルーンは続けない。
「そうですか」
それだけ返す。
聞いていました。
言葉は、
まだ喉の奥にある。
出そうと思えば出せる。
でも、
出さなかった。
ルーンの顔にある疲れを、
見たからではない。
四人を困らせたくないからでもない。
ただ、
今言えば、
昨夜の言葉が全部こちらへ向く。
誰が何を言ったのか。
誰が何を隠したのか。
誰が正しいのか。
誰が間違えたのか。
その形にしてしまう。
昨夜の声は、
そんなにきれいには分かれていなかった。
誰も正しくなかった。
誰も間違いきってもいなかった。
だから、
今は言わない。
それだけだった。
「何か聞きたいことがある顔だね」
ルーンが言う。
ユウトは少しだけ笑った。
笑えたかは、
分からない。
「あります」
正直に答える。
ルーンの目が揺れる。
「聞かないのかい」
「今日は」
ユウトは言う。
「聞きません」
ルーンは黙る。
廊下の奥で、
ユウトが言ったのと同じ。
今日は、
入らない。
今日は、
聞かない。
逃げるためではない。
なかったことにするためでもない。
今日の自分が、
持てるところまで。
「そうか」
ルーンが言う。
いつもの言葉。
でも、
今日は少しだけ声が落ちた。
安心したようにも。
傷ついたようにも聞こえた。
夕方。
宿へ戻ると、
椅子の向きが元に戻っていた。
扉に正面を向いている。
誰が戻したのかは、
分からない。
アーシャは食堂にいる。
こちらを見ない。
料理をしている。
ガイルはまだ戻らない。
ドラムも来ていない。
ルーンの姿もない。
ユウトは椅子まで歩く。
背もたれに手を置く。
木は冷たい。
昨夜の温度は、
もう残っていない。
座る。
ぎし、と鳴る。
扉は閉まっている。
今日も、
開けない。
開けないことを、
考える必要はなかった。
今日はもう、
別のものを持っている。
聞いたこと。
言わなかったこと。
聞かなかったこと。
どれも似ている。
でも、
同じではない。
アーシャが食堂から出てくる。
廊下の入口で止まる。
「今日、
ルーンに会った?」
「会いました」
「何か言ってた?」
ユウトは扉を見る。
「眠らなかったって」
アーシャの顔が、
ほんの少し硬くなる。
「ほかには?」
聞かれた。
言える。
宿にいたと。
座っていたと。
昨夜のことを、
自分が聞いていたと。
ユウトは首を振る。
「それだけです」
嘘ではない。
全部でもない。
アーシャは、
しばらくユウトを見る。
それから、
廊下の床へ視線を落とす。
「そっか」
静かな声。
たぶん、
気づいている。
ユウトが何かを残していることに。
でも、
アーシャも聞かなかった。
二人の間に、
言わなかったものが置かれる。
以前なら、
息苦しかったかもしれない。
今日は、
少し違った。
隠しているのではない。
捨ててもいない。
今は、
ここに置いている。
それだけだった。
夜。
四人は来なかった。
廊下は静かだった。
椅子も、
扉も、
動かない。
ユウトは部屋へ戻る。
布団に横になる。
目を閉じる。
耳の奥で、
いつもの断片が聞こえる。
「……前も」
「……違う」
「……まだ」
今夜は、
それだけだった。
昨夜のような声はしない。
でも、
聞いた言葉は残っている。
言わなかったことも、
残っている。
言えば、
何かが動いたかもしれない。
動かさなかった。
それが正しいかは、
分からない。
誰かを守ったとも、
思わなかった。
自分が優しくなったとも、
思わない。
ただ、
今日は言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
その違いを、
自分だけが知っていた。
ユウトは、
一度だけ目を開ける。
暗い天井。
木目は見えない。
数えない。
確かめない。
そのまま、
もう一度目を閉じた。
言わなかったことを、
消さないまま。
その夜は、
少し遅れて眠れた。




