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この村、全員ラスボス経験者でした。 〜もう二度と世界を救いたくない元最強たちのスローライフ〜  作者: にる


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入らなかった部屋

椅子は、

朝になっても廊下にあった。


扉の前ではない。


扉から数歩離れた場所。


近すぎず、

遠すぎない場所。


昨日、

ユウトが置いた場所。


夜のうちに誰かが動かした形跡はなかった。


少しだけ、

安心した。


少しだけ、

驚いた。


誰かが片づけてしまうかもしれないと思っていた。


邪魔だと言って、

食堂に戻すかもしれない。


板で塞がれるかもしれない。


扉ごと、

なかったことになるかもしれない。


でも、

椅子はそこにあった。


普通の木の椅子。


食堂にあった椅子。


それが廊下に一脚だけ置かれているだけで、

宿の奥はもう、

昨日までの宿ではなくなっていた。


ユウトは階段の途中で立ち止まり、

しばらく椅子を見ていた。


その先に、

扉がある。


閉まっている。


取っ手がある。


下の隙間がある。


何も聞こえない。


何も漏れていない。


何も起きていない。


でも、

そこにある。


それだけは変わらない。


「おはよう」


下からアーシャの声がした。


ユウトは振り返る。


アーシャは食堂の入口に立っていた。


昨日より、

少しだけ目の下が濃い。


眠れていないのかもしれない。


それでも、

声は朝の形をしていた。


「おはようございます」


返事をして、

階段を降りる。


廊下の椅子には座らない。


まず、

食堂へ行く。


それを選んだ。


逃げたわけではない。


後回しにしたわけでもない。


朝ごはんを食べる。


それも今日の一部だと思った。


食堂には、

二人分の食事があった。


少なめ。


温かい。


湯気が細く上がっている。


欠けた皿は使われていない。


けれど、

棚の見える場所に置かれていた。


隠されてはいない。


ユウトは座る。


アーシャは向かいに座った。


珍しかった。


いつもより近い。


でも、

手は伸ばさない。


「少しは眠れた?」


「少しだけ」


「そっか」


アーシャはそれだけ言って、

椀を持った。


会話は終わらない。


でも、

無理に続けることもしない。


味噌汁は少し冷めていた。


たぶん、

ユウトが起きる前から用意されていた。


待っていたのだと思う。


「椅子」


アーシャが言う。


「そのままにしてくれたんですね」


「うん」


「誰も動かさなかったんですか」


「誰も」


短い答え。


「動かしたかったですか」


ユウトが聞く。


アーシャは椀を置く。


少し考える。


「動かしたかった」


正直な声だった。


「でも、動かさなかった」


「どうしてですか」


「あなたが置いたから」


それだけ。


胸の奥が少しだけ痛くなる。


嬉しいのか。

苦しいのか。

分からない。


「俺が置いたものだから、ですか」


「うん」


アーシャは頷く。


「勝手に片づけたら、また私が決めることになる」


また。


その言葉が残る。


アーシャは目を伏せる。


「もう、全部は決めたくない」


小さい声。


ユウトは返事をしなかった。


返事をすると、

その言葉に形を与えすぎる気がした。


食事を終える。


皿を下げる。


アーシャは手伝おうとしない。


ユウトが自分で台所まで持っていく。


皿を置く。


水で流す。


普通の作業。


その普通の作業の奥に、

廊下の椅子と扉がある。


普通は消えていない。


でも、

普通だけでもない。


その両方がある朝だった。


食堂を出る。


廊下に向かう。


アーシャはついてこない。


でも、

食堂の入口から見ている。


見ていることを隠していない。


ユウトは椅子の前に立つ。


座るかどうか、

少し迷う。


迷ったあとで、

座った。


木の音がする。


ぎし、と小さく鳴る。


昨日置いた時とは違う音。


座った分だけ、

椅子がちゃんと椅子になった気がした。


扉を見る。


近い。


でも、

手は届かない。


立ち上がって数歩進めば届く。


その距離。


昨日より、

怖くないわけではない。


むしろ、

座っている分、

じっと見てしまう。


取っ手の小さな傷。


木目。


下の隙間。


扉の横の壁。


壁だったはずの場所。


考えると、

頭の奥が少し白くなる。


ユウトは目を逸らさない。


ただ、

急いで見ようともしない。


見る。


それだけ。


しばらくすると、

宿の入口が開いた。


ガイルだった。


土の匂いが少し入ってくる。


ガイルは食堂を通らず、

廊下まで来た。


椅子に座るユウトを見る。


扉を見る。


またユウトを見る。


「近い」


第一声はそれだった。


「昨日よりは、遠いです」


ユウトが言う。


ガイルは眉を動かす。


「昨日は立っていた」


「今日は座ってます」


「逃げにくい」


「逃げるつもりなら、座りません」


自分でも、

少し驚くくらい自然に言えた。


ガイルは黙った。


怒らない。


否定もしない。


「入るのか」


「入りません」


すぐに答えた。


ガイルの肩が、

ほんの少し下がる。


「今日は?」


「今日は、入りません」


「明日は」


「分かりません」


正直に言った。


ガイルの目が硬くなる。


「分からないなら、離れろ」


「分からないから、ここにいます」


廊下の空気が止まる。


アーシャが食堂の入口で息を止めたのが分かった。


ガイルは一歩近づく。


でも、

椅子には触れない。


ユウトにも触れない。


「見続けると、踏む」


「見ないでいると、戻ります」


ユウトは扉を見たまま言う。


「戻るだけなのは、嫌です」


ガイルは何も言わなかった。


昨日までなら、

「無駄が多い」と言ったかもしれない。


「死ぬ動きだ」と言ったかもしれない。


でも今日は、

そのどちらも言わなかった。


代わりに、

壁に背を預ける。


廊下の少し手前。


扉とユウトの間ではない。


ユウトの横でもない。


少し離れた場所。


そこに立った。


「座り方が悪い」


いつもの声。


ユウトは少しだけ息を吐く。


「そこですか」


「膝が固い」


「座っててもですか」


「固いものは、座っても固い」


ガイルは腕を組む。


「逃げるにも、残るにも、固いと遅れる」


ユウトは膝の力を抜く。


椅子に体重を預ける。


背中は伸ばしすぎない。


崩しすぎない。


扉を見る。


さっきより、

少しだけ呼吸が深くなった。


「これでいいですか」


「死ににくい」


いつもの褒め言葉。


少しだけ笑いそうになった。


笑えなかったけれど、

胸の奥は少し緩んだ。


昼前。


ドラムが来た。


手には何も持っていない。


板もない。


道具もない。


それだけで、

少しだけ空気が変わった。


ドラムは椅子を見る。


扉を見る。


ユウトを見る。


「入ったのか」


「入ってません」


「触ったのか」


「触ってません」


「ならいい」


短い。


でも、

そこで終わらなかった。


ドラムは廊下の床を見る。


椅子の脚。


床板。


扉までの距離。


「椅子、軋むな」


「古いんですかね」


「食堂の椅子だ」


「じゃあ、いつも軋んでたんですね」


「ここだと響く」


ドラムはしゃがむ。


椅子に触れようとして、

止まる。


「触っていいか」


ユウトは少し驚く。


ドラムが確認した。


ただそれだけで、

少しだけ胸が詰まる。


「はい」


ドラムは椅子の脚を指で押す。


軽く。


強くはない。


軋みを見る。


床を見る。


「直すか」


「壊れてますか」


「壊れてない」


「じゃあ、このままで」


ドラムは顔を上げる。


「軋むぞ」


「はい」


「気になる」


「気になります」


ユウトは頷く。


「でも、今はこの音があった方がいい気がします」


ドラムはしばらく黙る。


それから、

椅子から手を離した。


「そうか」


短い。


直さなかった。


直せるものを、

直さずに置いた。


それだけ。


でも、

ドラムにとっては簡単ではなかったのだと思う。


ドラムは廊下の入口近くに座った。


床に。


壁に背を預ける。


ガイルとは反対側。


扉からは遠い。


でも、

見える場所。


「仕事はいいんですか」


ユウトが聞く。


「今日は火じゃない」


以前と同じような答え。


「今日は何ですか」


ドラムは少しだけ考えた。


「見張りじゃない時間」


よく分からない答えだった。


でも、

何となく分かった。


見張っている。


でも、

見張りだけではない。


止めるためだけにいるのではなく、

一緒にそこにいる。


たぶん。


昼。


アーシャが廊下まで食事を運んできた。


盆の上に、

小さなおにぎりと味噌汁。


食堂で食べればいいのに、

とは誰も言わなかった。


「ここで食べるのは、行儀悪いかな」


アーシャが言う。


「悪いと思います」


ユウトが答える。


アーシャは少しだけ笑った。


「だよね」


盆を床に置く。


「でも、今日はここでもいいかなって」


ユウトは椅子から立とうとする。


アーシャが首を振る。


「座ってて」


近づきすぎない声。


ユウトは座ったまま、

盆を受け取る。


味噌汁は少しぬるい。


廊下で食べるには、

ちょうどよかった。


ガイルは食べない。


ドラムも食べない。


アーシャは廊下の入口に座った。


少し離れて。


全員が、

扉の方を向いているわけではない。


でも、

扉は全員の視界のどこかにある。


「変ですね」


ユウトが言う。


「何が」


アーシャが聞く。


「扉の前でご飯食べてます」


「そうだね」


「普通じゃないです」


「うん」


「でも、食べられます」


アーシャは小さく頷いた。


「うん」


それだけ。


普通ではない場所で、

普通のものを食べる。


普通に戻ったわけではない。


でも、

食べられる。


そのことが少しだけ大事に思えた。


午後。


ルーンが来た。


遅かった。


いつものように遅いのではなく、

来るかどうか迷っていたような遅さだった。


廊下にいる四人を見て、

少しだけ目を細める。


「集まっているね」


「集まったわけではありません」


ユウトが言う。


「ここにいただけです」


ルーンは頷く。


「そうか」


扉を見る。


椅子を見る。


ユウトを見る。


「入らないのかい」


「入りません」


「今日は?」


「今日は」


ユウトは答える。


「今日は、入りません」


ルーンは微笑む。


「それは、止められたから?」


「違います」


思ったより早く答えられた。


「怖いから?」


「怖いです」


「じゃあ、怖いから?」


「それだけじゃないです」


ユウトは扉を見る。


手は届かない。


でも、

見える。


「入ったら、分かるのかもしれないと思います」


誰も動かなかった。


「でも、分かるために入るのは、少し違う気がします」


喉が少し痛む。


でも、

言葉は通る。


「分からないまま見ることも、必要な気がします」


ルーンの微笑みが消えた。


本当に、

少しだけ。


「誰かに教わったのかい」


「分かりません」


ユウトは首を振る。


「でも、最近ずっと、そういうことばかりだったので」


欠けた皿。


蓋のない箱。


沈む土。


軋む椅子。


普通ではない朝。


言えない言葉。


全部、

すぐに直さないで置いたものだった。


扉も、

今はそうする。


開けるためではなく。


消すためでもなく。


そこにあるものとして。


「入らないことも、選ぶことなのかもしれません」


言ってから、

胸が少し冷えた。


選ぶ。


その言葉は、

今まであまり使わなかった。


使った瞬間、

扉の向こうが少し近づいた気がした。


ルーンは目を伏せる。


「その言葉は」


そこで止まる。


「まだ、重い」


ユウトは頷く。


「はい」


確かに重かった。


だから、

言い直す。


「じゃあ、決めました」


ルーンが顔を上げる。


「今日は、入らないと決めました」


選ぶより、

少し軽い。


でも、

逃げよりは重い。


今の自分が持てる形。


それくらいの言葉だった。


ルーンは何も言わなかった。


ただ、

静かに頷いた。


夕方。


ガイルは畑へ戻った。


ドラムも鍛冶場へ戻った。


アーシャは食堂へ戻った。


ルーンも村長宅へ帰った。


ユウトだけが、

もう少し椅子に座っていた。


一人だった。


でも、

一人にされた感じはしなかった。


椅子がある。


扉がある。


昼に食べた味噌汁の匂いが、

少しだけ廊下に残っている。


ガイルの土の匂い。


ドラムの灰の匂い。


アーシャの手の温度。


ルーンの沈黙。


全部が少しずつ残っている。


扉は開いていない。


何も分かっていない。


それでも、

昨日よりは少し違う。


ユウトは椅子から立つ。


扉へは向かわない。


椅子を片づけもしない。


そのままにして、

食堂へ戻る。


アーシャが顔を上げる。


「今日は?」


「入りませんでした」


「うん」


「明日は分かりません」


アーシャは少しだけ息を止める。


それから、

頷いた。


「うん」


無理に笑わなかった。


それでよかった。


夜。


部屋。


扉は廊下の奥にある。


椅子もある。


そのことを知ったまま、

布団に横になる。


昨日より、

身体は重くない。


眠れなかった夜のあとで、

一日を扉の近くで過ごした。


それなのに、

身体の奥は少しだけ落ち着いていた。


開けなかったからではない。


逃げなかったからでもない。


たぶん。


自分で、

今日は入らないと決めたから。


その違いだけが、

夜の中に残っている。


耳の奥で声がする。


「……前も」


「……違う」


「……入れ」


「……まだ」


短い。


近い。


けれど、

今日はその声に返事をしなかった。


返事をしないことを、

無視だとは思わなかった。


ユウトは目を閉じる。


扉の向こうには、

何かがある。


それはもう分かっている。


でも、

分かるために開ける必要は、

今日はなかった。


入らなかった。


逃げなかった。


決めた。


今日は、

それだけだった。


その夜は、


眠れた。

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