閉める人たち
眠れなかった朝は、
朝の形をしていなかった。
鳥は鳴いた。
井戸も鳴った。
台所からは鍋の音がした。
それでも、
朝になった気がしなかった。
夜が終わらないまま、
光だけが差している。
そんな感じだった。
ユウトは布団の上に座っていた。
いつ横になったのかは覚えている。
目を閉じたことも覚えている。
でも、
眠った覚えがない。
眠れなかった。
それなのに、
朝になっている。
それが少しだけ不思議で、
少しだけ嫌だった。
扉のことを考えていた。
宿の奥。
昨日まで壁だった場所。
昼に現れた扉。
夜になっても消えなかった扉。
誰も開けなかった扉。
誰も、
ないとは言わなかった扉。
ユウトは立ち上がる。
床に足を下ろす。
冷たい。
その冷たさだけは、
ちゃんと朝だった。
部屋を出る。
廊下に出ると、
空気がいつもより重い。
階段へ向かう前に、
奥を見た。
扉はあった。
昨日と同じ場所。
閉まっている。
取っ手もある。
下の隙間もある。
何も漏れていない。
何も聞こえない。
ただ、
そこにある。
ユウトは数歩だけ近づきかけた。
その前に、
階段の下から声がした。
「ユウト」
アーシャだった。
声は静かだった。
でも、
起きてくるのを待っていた声だった。
ユウトは振り返る。
階段の下に、
アーシャが立っている。
笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、
疲れていた。
「おはよう」
「おはようございます」
返事をすると、
喉が少し痛かった。
眠れなかったからか。
言えないものが残っているからか。
分からない。
「朝ごはん、できてるよ」
「はい」
ユウトは階段を降りる。
奥の扉に背を向ける。
背を向けても、
背中に扉が残っている。
食堂に入ると、
食事が並んでいた。
少ない。
いつもより少ない。
でも、
足りないほどではない。
アーシャは向かいに座らない。
台所の入口に立ったまま、
ユウトを見る。
「眠れた?」
聞かれなかった。
その代わりに、
アーシャは言った。
「無理に食べなくていいよ」
ユウトは椀を見る。
湯気が細い。
「眠れませんでした」
先に言った。
アーシャの指が、
袖口を掴む。
「そっか」
それだけ。
「扉、まだあります」
「うん」
「消えませんでした」
「うん」
アーシャは否定しない。
夢だとも言わない。
それだけで、
昨日から何かが変わっている。
変わったことが、
少し怖い。
「どうするんですか」
ユウトが聞く。
アーシャは答えられない。
台所の方を見る。
鍋の蓋を見る。
食堂の床を見る。
それから、
小さく言った。
「私は、入ってほしくない」
「理由は」
「言えない」
昨日と同じ。
でも、
今日は少し違う。
隠している声ではなく、
言えないことをそのまま置く声だった。
「でも、消したくもない」
ユウトは顔を上げる。
アーシャは自分でも驚いたように、
少しだけ目を伏せた。
「消したら、なかったことにするみたいだから」
その言葉は小さかった。
小さいけれど、
食堂の中にちゃんと残った。
ユウトは椀を持つ。
温かい。
手のひらに温度が移る。
「じゃあ、置いておくんですか」
「分からない」
アーシャは首を振る。
「分からないけど、閉じ込めるのは嫌」
その時、
外で木の音がした。
重いものを置く音。
ユウトとアーシャが同時に入口を見る。
ドラムが来ていた。
肩に板を担いでいる。
昨日の板より、
大きい。
厚い。
扉を塞ぐには、
十分すぎる大きさだった。
「ドラムさん」
ユウトが立ち上がる。
ドラムは食堂に入らず、
廊下の方を見る。
「閉める」
昨日と同じ言葉。
アーシャが前に出る。
「閉めないで」
「開いている」
「閉まってるよ」
「違う」
ドラムは板を床に置く。
鈍い音がする。
「扉がある時点で、開いてる」
ユウトは廊下の奥を見る。
扉は閉まっている。
でも、
ドラムの言うことも少し分かった。
そこに入口があるだけで、
もう何かは開いている。
昨日まで壁だった場所に、
行ける形がある。
それだけで、
閉じているとは言えない。
アーシャは首を振る。
「板で塞いだら、もっと残る」
「残ってもいい」
ドラムが言う。
「触れなければいい」
「触れないようにするために、見えるところへ傷を増やすの?」
ドラムは答えない。
板を見る。
扉を見る。
「見えない傷よりはいい」
低い声だった。
アーシャは言葉を失う。
ユウトは二人の間に立つわけでもなく、
少し離れた場所で見ていた。
また噛み合っていない。
どちらも、
扉をどうにかしようとしている。
どちらも、
ユウトをそこから遠ざけたいのだと思う。
でも、
アーシャは残したまま触れさせたくない。
ドラムは見える形で塞ぎたい。
守るために、
傷を見える場所へ移そうとしている。
「ガイルさんは」
ユウトが言った。
自分でも、
なぜ呼んだのか分からなかった。
でも、
呼ぶ前に、
入口に影が差した。
ガイルがいた。
いつ来たのか分からない。
畑の土が、
靴の端についている。
「塞ぐな」
ガイルが言う。
ドラムが振り向く。
「ではどうする」
「近づけない」
「同じだ」
「違う」
ガイルは廊下を見る。
「塞げば、そこが目印になる」
ドラムの手が板にかかる。
「今でも目印だ」
「増やすな」
「放っておくのか」
「踏ませなければいい」
「踏ませないためにどうする」
ガイルは答えない。
答えられないのではなく、
答えたくないように見えた。
アーシャが小さく言う。
「囲うのは嫌」
ガイルの眉が動く。
「囲わない」
「近づけないって、囲うことと何が違うの」
声は強くない。
でも、
その言葉で空気が少しだけ痛くなった。
ガイルはアーシャを見ない。
ドラムも見ない。
ただ、
ユウトの足元を見る。
「踏み込ませないだけだ」
「俺は、踏み込んでません」
ユウトの声が出た。
三人がこちらを見る。
「昨日も、入ってません」
喉は痛い。
でも、
言葉は通る。
「触ってもいません」
ユウトは廊下の奥を見る。
「でも、戻りませんでした」
その言葉で、
少しだけ全員が黙った。
戻らない。
昨日、
自分が言ったこと。
それが今日も、
まだここにある。
ドラムは板を持ち上げない。
アーシャは近づかない。
ガイルは廊下を塞いだまま立っている。
そこへ、
ルーンが来た。
いつものように、
遅れて。
でも、
今回は遅れて来たのではなく、
来る時を選んでいたように見えた。
「朝から賑やかだね」
誰も笑わなかった。
ルーンも笑わない。
食堂に入り、
廊下の奥を見る。
扉を見る。
板を見る。
ユウトを見る。
それから、
静かに言う。
「今日は、閉めない方がいい」
ドラムの目が少し動く。
「昨日は閉めると言った」
「昨日は、閉めておこうと言った」
「同じだ」
「違うよ」
ルーンの声は穏やかだった。
けれど、
その穏やかさが今日は少し薄い。
「閉じることと、閉じ込めることは違う」
ドラムは黙る。
アーシャも黙る。
ガイルだけが短く言った。
「どう違う」
ルーンはすぐに答えなかった。
廊下を見ている。
扉の下の隙間。
取っ手。
傷。
「違う、と思いたいだけかもしれない」
その言葉は、
誰の予想とも違っていた。
ユウトはルーンを見る。
ルーンは続けない。
続けないことが、
逃げではなく、
限界のように見えた。
「じゃあ、どうするんですか」
ユウトが聞く。
四人の視線が集まる。
昨日より、
その視線は重い。
でも、
逃げたいとは思わなかった。
「開けるな」
ガイルが言う。
「塞がせろ」
ドラムが言う。
「今日は何もしないで」
アーシャが言う。
「今日は、ここにあるものとして扱おう」
ルーンが言う。
四つの答え。
全部違う。
全部、
自分に向いている。
それなのに、
どれも自分の答えではない。
ユウトは息を吸う。
眠れていない身体に、
空気が少し重く入る。
「俺は」
言葉が止まりそうになる。
喉が狭い。
でも、
鍬の柄を思い出す。
握りすぎない。
離しすぎない。
持てる形にする。
「今日は、開けません」
言った。
アーシャの肩が下りる。
ドラムの手が止まる。
ガイルの目はまだ硬い。
ルーンは黙っている。
ユウトは続ける。
「でも、塞ぐのも嫌です」
ドラムがわずかに眉を動かす。
「近づかないようにされるのも、嫌です」
ガイルの手が小さく握られる。
「なかったことにするのも、嫌です」
アーシャが目を伏せる。
「だから」
言葉が止まる。
でも、
今度は沈黙が怖くなかった。
少しだけ考える時間だった。
「椅子を置きます」
四人が、
ほとんど同時にユウトを見た。
「椅子?」
アーシャが言う。
「はい」
ユウトは食堂の椅子を見る。
普通の椅子。
木の椅子。
昨日もあった椅子。
「扉の前じゃなくて、少し手前に」
自分でも、
変なことを言っていると思った。
でも、
言葉は続いた。
「開けないためじゃなくて、見ないためでもなくて」
廊下を見る。
昨日、
自分が止まった場所。
「ここまで来たことを、分かるように」
誰もすぐには何も言わなかった。
風が窓を鳴らす。
鍋の湯気が細く上がる。
外で井戸がきしむ。
普通の朝の音が、
ようやく少し戻ってくる。
ルーンが静かに言う。
「印かい」
「たぶん」
ユウトは答える。
「でも、板じゃないです」
ドラムを見る。
「塞がない」
ガイルを見る。
「通せんぼでもないです」
アーシャを見る。
「消すんでもないです」
最後に、
扉を見る。
「開けるんでもないです」
言い終えると、
少しだけ息が切れていた。
眠れていないからだと思った。
それだけではないかもしれない。
アーシャが椅子を一脚持った。
「私が」
「俺が持ちます」
ユウトが言う。
アーシャは止まる。
迷う。
それから、
ゆっくり椅子から手を離した。
「うん」
短い。
近すぎない声だった。
ユウトは椅子を持つ。
重くはない。
でも、
軽すぎもしない。
廊下へ向かう。
ガイルが一歩だけ退いた。
完全には退かない。
でも、
通れる。
ユウトはその横を通る。
ドラムは板を床に置いたまま、
見ている。
ルーンは廊下の入口に立っている。
誰も何も言わない。
昨日止まった場所。
そこより少し手前。
扉までは、
まだ数歩ある。
ユウトはそこに椅子を置いた。
ことん。
小さな音。
普通の音。
でも、
その音で廊下の空気が少し変わった。
扉はまだある。
閉まっている。
触れていない。
椅子はその手前にある。
塞いでいない。
守ってもいない。
ただ、
そこに置かれた。
ユウトは椅子を見下ろす。
「今日は、ここまでです」
自分で言った。
昨日は、
ルーンに言われた言葉だった。
今日は、
自分で言った。
ルーンの目が、
ほんの少しだけ揺れた。
「そうか」
それだけ。
ガイルは短く息を吐いた。
ドラムは板を持ち上げる。
でも、
扉へは向かわない。
そのまま外へ運び出す。
アーシャは口元を押さえていた。
泣いてはいない。
でも、
笑ってもいない。
朝は続いた。
朝の形を、
少しだけ取り戻した。
食事は冷めていた。
椀の湯気はほとんど消えている。
それでも、
ユウトは席に戻って食べた。
少し冷たい味噌汁。
硬くなった米。
それでも食べられる。
普通ではない朝。
でも、
朝ではある。
昼。
扉はまだあった。
椅子もあった。
村人は宿の奥を見ない。
見えていないのか。
見ないようにしているのか。
分からない。
アーシャは食堂で仕事をしている。
時々、
廊下を見る。
でも、
近づかない。
ガイルは宿の外に立つ時間が増えた。
見張っているわけではない顔で、
見張っている。
ドラムは板を鍛冶場に持ち帰った。
割らなかった。
捨てなかった。
たぶん、
置いてある。
ルーンは一度だけ宿に来て、
椅子を見て、
何も言わずに帰った。
その日、
誰も扉を開けなかった。
誰も扉を塞がなかった。
誰も、
ないことにしなかった。
夕方。
ユウトは廊下の椅子に座った。
アーシャが何か言いかけた。
でも、
言わなかった。
ガイルも止めなかった。
ドラムはいない。
ルーンもいない。
扉まで、
数歩。
手を伸ばしても届かない距離。
でも、
見える距離。
ユウトは椅子に座ったまま、
扉を見ていた。
怖い。
眠れていない頭に、
扉の形が少し滲む。
取っ手。
傷。
下の隙間。
何も変わらない。
それでも、
見ていると少しずつ分かる。
扉が怖いのではない。
扉を見た瞬間に、
四人の声がばらばらになったことが怖かった。
同じ場所に立てないこと。
同じ答えを持っていないこと。
守られていると思っていたものが、
一つの形ではなかったこと。
それが怖かった。
夜。
部屋に戻る。
椅子は廊下に置いたまま。
扉もそのまま。
ユウトは布団に入らず、
床に座った。
眠気はある。
昨日より強い。
眠れなかった分、
身体は重い。
でも、
目を閉じる前に、
今日のことを置いておきたかった。
開けなかった。
塞がなかった。
戻らなかった。
椅子を置いた。
それだけ。
本当に、
それだけだった。
耳の奥で声がする。
「……前も」
「……違う」
「……閉じ」
「……まだ」
短い。
昨日より近い。
でも、
今日はその声に引っ張られなかった。
椅子の音を思い出す。
ことん。
小さな音。
普通の音。
あの音が、
今日の真ん中にある。
ユウトは横になる。
目を閉じる。
扉はまだある。
椅子もまだある。
四人の答えは、
まだ違う。
でも、
今日は自分の答えを一つ置いた。
眠れるかどうかは、
分からなかった。
それでも、
少しだけ眠れた。




