昼に戻らなかったもの
昼だった。
朝ではない。
夜でもない。
鍋の湯気が立っていて、
窓から光が差していて、
外では誰かが井戸を使っていた。
普通の昼。
普通に見える時間。
その奥で、
扉が一つ増えていた。
ユウトが気づいたのは、
食堂の皿を下げようとした時だった。
アーシャが台所にいる。
水の音がする。
皿の音がする。
床を踏む自分の足音がする。
その先。
廊下の奥。
昨日まで壁だった場所に、
扉があった。
木の扉。
古くない。
新しくもない。
そこにあることが、
当たり前みたいな顔をしていた。
ユウトは足を止めた。
皿を持ったまま、
廊下の奥を見る。
扉は閉まっている。
取っ手がある。
小さな傷がある。
下の方に、
細い隙間がある。
そこから、
何かが漏れているわけではない。
光もない。
音もない。
匂いもない。
ただ、
扉がある。
それだけだった。
それだけなのに、
喉が少し詰まった。
「ユウト?」
アーシャの声。
近い。
台所から顔を出していた。
「どうしたの」
ユウトは答えない。
答えられなかった。
アーシャの視線が、
ユウトから廊下の奥へ移る。
その瞬間、
水の音が止まった。
本当に、
きれいに止まった。
「……見た?」
声が小さい。
ユウトはゆっくり頷く。
「昨日、ありましたか」
アーシャはすぐには答えなかった。
笑わない。
夢だよ、とも言わない。
何でもない、とも言わない。
ただ、
濡れた手を布で拭いている。
拭く必要があるからではなく、
手を動かしていないと立っていられないみたいに。
「入らなくていいよ」
アーシャが言った。
それは答えではなかった。
でも、
今までのどの答えよりも、
答えに近かった。
ユウトは扉を見る。
「入らなくていい、ですか」
「うん」
「ない、とは言わないんですね」
アーシャの手が止まる。
布が少し歪む。
「……言えない」
短い声だった。
ユウトは皿を持ったまま、
立っている。
皿は軽い。
軽いのに、
指が痛い。
力を入れすぎている。
気づいて、
少し緩める。
皿が揺れる。
落ちない。
「これは」
言いかけて、
言葉が止まる。
何ですか。
そう聞けばいい。
でも、
聞いた瞬間に、
今の昼が違うものになる気がした。
アーシャは一歩近づく。
近づきかけて、
止まる。
昨日までなら、
そのまま手を伸ばしていたかもしれない。
今日は止まった。
止まったことが、
逆に痛い。
「皿、置いて」
アーシャが言う。
ユウトは食堂の机に皿を置いた。
ことん、と音がする。
普通の音。
普通の昼の音。
その奥に、
扉がある。
音の中で、
扉だけが黙っている。
外から足音がした。
重い足音。
ガイルだった。
宿の入口で止まり、
食堂を見て、
廊下を見る。
顔が変わらない。
変わらないまま、
空気だけが硬くなった。
「近づくな」
短い声。
ユウトは振り向く。
「ガイルさん」
「近づくな」
同じ言葉。
いつもの言い方。
でも、
今日は畑ではない。
土もない。
重心もない。
宿の廊下で、
ガイルは同じことを言っている。
「何でですか」
ユウトは聞いた。
声が出た。
思ったよりも、
まっすぐ出た。
ガイルは答えない。
答えないまま、
廊下の手前に立つ。
扉とユウトの間。
「そこは踏むな」
「廊下ですよ」
「そう見える」
そう見える。
その言葉が、
昨日までの全部と繋がる。
戻ったように見える朝。
直ったように見える土。
普通に見える昼。
扉に見えるもの。
「何に見えてるんですか」
ガイルの顎がわずかに動く。
答えようとしたのかもしれない。
でも、
答えは出なかった。
代わりに、
外から別の足音が来た。
今度は、
さらに重い。
ドラムだった。
手に何かを持っている。
木の板。
釘ではない。
紐でもない。
ただの板。
ドラムは食堂に入ると、
扉を見た。
長くは見ない。
一瞬だけ。
それで十分だったみたいに、
板を持ち直す。
「閉める」
低い声。
アーシャが顔を上げる。
「待って」
「閉める」
「だめ」
アーシャの声が強くなった。
ユウトは二人を見る。
ドラムは扉へ向かおうとする。
ガイルがその前に立つ。
「触るな」
ドラムが言う。
「お前が触るな」
ガイルが返す。
短い。
低い。
二人の間に、
今まで見たことのない硬さがあった。
アーシャが一歩進む。
「ここでやめて」
「やめるために閉める」
ドラムの声。
「閉めたら、残る」
アーシャの声。
「開いていても残る」
「だからって」
言葉が重なる。
噛み合わない。
誰も怒鳴っていない。
でも、
声の端がぶつかっている。
ユウトはその場で立っていた。
今まで、
四人は大体同じ方向を向いているように見えた。
止め方が違うだけ。
言葉が違うだけ。
でも、
今日は違う。
近づくな。
入らなくていい。
閉める。
触るな。
全部、
守ろうとしている言葉に聞こえる。
それなのに、
向いている場所が違う。
扉は黙っている。
廊下の奥で、
当たり前のように閉まっている。
その時、
ルーンが来た。
足音はほとんどしなかった。
いつものように、
穏やかな顔で入口に立つ。
けれど、
目だけが笑っていない。
「今日は、閉めておこう」
ルーンが言った。
全員が黙った。
その言葉は、
ドラムの「閉める」と似ていた。
でも、
同じではなかった。
ドラムは板を持っている。
閉じるために。
ルーンは何も持っていない。
閉めると言いながら、
何かを遅らせようとしている。
そんな風に見えた。
「今日は、って何ですか」
ユウトが聞く。
ルーンは微笑む。
「今日の話だよ」
「明日は?」
「明日は、明日だ」
答えではない。
でも、
今までよりもずっと弱い逃げ方だった。
ユウトは廊下を見る。
扉。
昨日までなかったもの。
でも、
今ここにあるもの。
誰も、
ないとは言わない。
夢だとも言わない。
気のせいだとも言わない。
それだけで、
もう十分だった。
ユウトは一歩進んだ。
アーシャが息を飲む。
ガイルの肩が動く。
ドラムの手が板を強く握る。
ルーンの目が細くなる。
一歩だけ。
扉へ向かって。
ガイルが前に出る。
「止まれ」
ユウトは止まった。
でも、
戻らなかった。
「止まりました」
そう言った。
ガイルの目がわずかに揺れる。
「戻れ」
「戻りません」
自分の声だった。
少し震えている。
でも、
出た。
アーシャが名前を呼びかける。
「ユウト」
その声に、
近すぎる手の温度があった。
でも今日は、
その手が届く前に、
ユウトは自分の足元を見た。
廊下の床。
いつもの木。
昨日まで壁だった場所へ続く床。
足は震えている。
でも、
立っている。
「入るとは言ってません」
ユウトは言った。
「でも、戻りません」
誰もすぐには答えなかった。
扉まで、
あと数歩。
近い。
近すぎる。
でも、
触れていない。
入っていない。
ただ、
戻っていない。
その場所に立っている。
ルーンが静かに息を吐いた。
「そこまで」
いつもの言葉。
いつもの終わらせ方。
でも今日は、
ユウトはすぐに頷かなかった。
「ここまで、ですか」
「今日は」
ルーンが言う。
「ここまで」
また、
今日。
ユウトは扉を見る。
取っ手。
小さな傷。
下の隙間。
何も漏れていない。
何も聞こえない。
それでも、
その向こうに何かがあることだけは、
分かってしまった。
「……分かりました」
ユウトは言った。
アーシャの肩が少し下りる。
ガイルの手が緩む。
ドラムが板を少し下ろす。
ルーンは微笑まない。
ユウトは続けた。
「今日は、ここまでにします」
その言葉で、
空気がもう一度止まった。
ここまで。
でも、
戻らない。
終わりではなく、
今日の終わり。
ユウトはゆっくり後ろへ下がった。
一歩。
二歩。
戻る。
けれど、
さっき立った場所をなかったことにはしない。
廊下の途中に、
足裏の感覚が残っている。
あそこまで行った。
触れなかった。
入らなかった。
戻った。
でも、
戻る前の場所は残った。
食堂に戻ると、
皿が机の上にあった。
さっき置いた皿。
普通の皿。
欠けていない皿。
ユウトはそれを持つ。
今度は、
指に力を入れすぎなかった。
アーシャが小さく言う。
「ごめん」
何に対しての謝罪か、
分からなかった。
近づいたことか。
止めたことか。
言えなかったことか。
扉のことか。
全部かもしれない。
「まだ、聞きません」
ユウトは言った。
アーシャが顔を上げる。
「でも、なかったことにはしません」
自分で言って、
少しだけ喉が痛くなった。
でも、
朝までの痛みとは違った。
通ったあとの痛みだった。
ガイルは何も言わない。
ドラムも何も言わない。
ルーンは扉の方を見ている。
その顔は、
穏やかではなかった。
昼は続いていた。
井戸の音がする。
外で誰かが笑う。
鍋の湯気がまだ上がっている。
普通の昼。
その奥に、
扉がある。
もう、
ないことにはできない。
夕方になっても、
扉は消えなかった。
夜になっても、
扉はそこにあった。
誰も開けなかった。
誰も板を打たなかった。
誰も触れなかった。
ただ、
廊下の奥で閉まっていた。
ユウトは部屋に戻る前に、
もう一度だけ廊下の奥を見た。
扉は黙っている。
でも、
見ているだけで、
胸の奥が少し重くなる。
怖い。
それは確かだった。
でも、
怖いから消えてほしいとは思わなかった。
消えた方が楽だとは思う。
戻った方が眠れるとも思う。
それでも、
消えればいいとは、
今日は思わなかった。
部屋に入る。
布団に座る。
耳の奥で声がする。
「……前も」
「……違う」
「……開け」
「……まだ」
まだ。
その言葉が、
いつもより近かった。
ユウトは目を閉じない。
眠気は来ている。
でも、
すぐには横にならない。
昼に戻らなかったもの。
廊下の奥の扉。
四人の噛み合わない声。
戻れと言われて、
戻らなかった足。
入らなかった。
触れなかった。
でも、
戻らなかった。
今日は、
そこまでだった。
それでいいのかは分からない。
でも、
それをなかったことにはしない。
ユウトは、
しばらく暗い部屋の中で座っていた。
やがて横になる。
眠気が落ちてくる。
扉のことを考えたまま、
目を閉じる。
その夜は、
眠れなかった。




